100円入れて揺れる子供の乗り物に老母を座らせるのは虐待とは思わないが幸せではなさそうだ;私に何かできたのだろうか?
今日の昼、私はかねてから気になっていたカレースタンドで野菜カレーとナンの弁当を注文していた。私は金持ちではないが、日曜の昼に弁当を買えるくらいの金子(“かねこ”ではなく“きんす”)は持っていた。
このカレースタンドの対面は小さな空きスペースになっており、100円を入れると小さなおもちゃが出てくる「ガチャ」や、100円を入れると一定時間揺れながら音楽が流れる、なんというか、子供の遊具が置いてあった。
カレーを調理している間、カウンター席に座っていると、母子と思われる二人組が来た。母と思われる女性はどう見ても老人、スカーフをかぶっており、何かヨーロッパの生活困窮者(ジプシーって今呼んではいけないんでしたっけ)のような雰囲気だった。
子供と思われる男性は、子供といっても40歳前後のような顔立ちで、スーツケースその他の大荷物を抱えていたが、この二人が旅行中であるとも思えなかった。
男は地べたに座り込み、財布から小銭を取り出し、母と思われる老婆に対して、目の前の消防車の形をした遊具に座れとしきりに言っていた。つまり100円を入れた後に座れば、これは立派な客であり、堂々と座っていられるのだと繰り返した。
男の口調からは知的障害者に特徴的な話し方は感じ取れなかったが、話している内容はどう考えてもおかしい。いくら老婆が小柄とはいえ、それよりはるかに小さな子どもが座る遊具が老婆にとって快適な筈がない。男は遊具に100円を挿入すると、荷物をおいたまま、どこへとなく歩き去ってしまった。老婆は男の命令に口答えするでもなく、足が上がらない様子で苦労しながら、やっとその狭くて硬いシートに座った。
楽しげな音楽が流れ、遊具は左右に揺れていた。老婆は黙って揺られていた。
一分後、遊具から「バイバイ、またね、バイバイ、またね」と音声が流れて音楽と揺れは止まった。老婆はそこに縮こまって座ったままだった。男は帰ってこなかった。
私はこの光景を見るのは辛すぎ、自分が何かしてやれることは無いだろうかと考えた。カレーをおごってあげる?何か失礼では?それに老婆がカレー好きかどうかは聞いてみないとわからない。
事情により家賃を払えなくなった母子の高齢ホームレス、私にはそのように、見えた。老母は高齢でもあるし、息子の方は言っていることがまともじゃないので、金を稼げる仕事ができるとは思えなかった。
ほどなくネパール人シェフ(多分)の作る弁当が出来上がったので、私はその弁当を受け取ると、そのまま帰ろうとした。しかしそれで良いのだろうか?
私は踵を返して老母の元へ近づくと、「座れる所をお探しなら、この先に市役所があります。一階ロビーは日曜日でも21時まで座れますので、よろしかったら、あの…」と言った。
老母は「ありがとう」と言った。私は帰った。
もし母子が市役所へ行き、夜まで何をするでもなく座っていたとしたら、もしそれが平日なら職員が声をかけ、そこから何か福祉サービスが受けられるかもしれなかったのだが、今日は休日で職員も最低限しかいないだろうし、この母子が市役所へ行くのかどうかも分からない。だいいち私が感じた「母子の生活困窮者」という見立てには何の根拠もない。しかし私が老母に近づいて感じたのは、マスク越しにも分かる、しばらく風呂には入っていないであろう体臭だった。
私は彼らに何ができたのだろうか?と考えた。答えは出なかったのだが、少なくとも私はカレー弁当を買えるぐらいの幸せな状況にいることに感謝し、市役所が日曜でも21時まで1階ロビーを開放していることに感謝した。あの息子はどうにも厄介な性格であろうことは、老母が何も反論せず子供の遊具に座った従順さで理解できた。話し合っても無駄な奴なのだ。そこが悲しかった。
生活困窮者だろうが性格破綻者だろうが、全ての人間に屋根と座るところと食べ物と寝床が無いのは何故なのだろうか?ここで「格差社会」だとか何とか、的はずれな事を言う気は毛頭ない。格差はあっても底上げがなされていたら問題ないはずなのに、それがなされていないのはどういうわけだ、ということが言いたいのだ。
私が老母だったら、おかしな息子に言われるがままに子供の遊具に乗る気分はどのようなものだろうか?上がらない足を無理やり上げて子供の遊具に乗り込む気分はどのようなものだろうか?楽しげな音楽とともに遊具に揺られる気分はどのようなものだろうか?と考えた。傍を通る子供やカレースタンドのシェフから奇妙な目を向けられる気分はどのようなものだろうか?と考えた。本当に辛い。