「20年ぶりの円安」でMac Book Airが高かったが20年前も同様だったのでは?
合計20万円に驚愕した
もしかしたら買い換えようと思っていたMacBook Air 2022年式の発表があった。さっそくApple Store(オンライン)でBTOを試した。RAMを16GBに、SSDを512GBにカスタマイズしたら合計金額20万円超と表示されたので驚いた。円安のせいとはいえ、こんなに高かったのか?「20年ぶりの円安」?それでは20年前のエントリーレベルMacはどうだったのかと調べてみると、2001年5月発売のiBook(Dual USB)の値段は¥158,000からだった。
この当時の値段は、20年間の物価上昇やら、性能向上は考慮に入れていないわけなので、もしかしたらMacBook Air 2022のBTOで20万円、というのは安いかもしれない。かもしれないが、私がこの2–30年見てきたコンピューターの性能向上と価格低下というのはそんなものではなく、私の親の世代であれば戦後の卵の価格の下落のようなものだろうか?いや違う、コンピューターの性能向上を考慮すれば卵と比較するのはおかしいのだ。
Appleでいえば、一時期、Mac miniが5万円程度で売られていたのを見てしまったからには、この20万円という価格は受け入れがたいと思っている。iPhoneもそうだ。なぜスマホごときに10万円以上出さなければならないのか?今、手持ちのiPhone XRもバッテリー交換で延命しつつ、この円安を乗り切らなければならないと思った。
MacBook Proの方も、Dockerに4GBメモリーを割り当てたら動作がガクガクなのだけど「動いている」というだけで我慢するしかない。「ヌルヌル動くのが好き」だのというのは、単なる私の、実用とはかけ離れた「趣味」でしかないからだ。A地点からB地点まで移動するのに、軽自動車でも充分なところを、私は「やはりベントレー・ベンテイガのダッシュボードに組み込まれたトゥールビヨン時計2,000万円也を見ながら移動するのは楽しいものだ」と言っているようなものだ。いや違う、コンパイル速度が速くなると私の開発効率が上がるのだ。V12エンジンがあっても、渋滞だらけの都市部の道なら歩いたほうが速い。だからこのたとえ話は適切ではない。やっぱりM2 MacBook Airは自分にとって必要なのではないか?
これが2001年5月2日のプレスリリースだ。当時のiBookは、まだMacOS 9で起動するもののようだった。懐かしい。この年の秋に正式版がリリースされる、Mac OS X 10.0を私は心待ちにしていたのだろうか?いや違う、私は当時もお金がなかったので、Mac OS Xが起動するMacというものを持っていなかったから、試そうにも試せなかったのだ。だいたい、ネイティブ開発言語であるObjective-Cなど当時の私は知らなかったし、それなら勝手知ったるC++で書けるBeOSをIntel PC、または型落ちのPowerMacで動かして、newだのdeleteだの自分でメモリ管理をした方が私にとってはマシだった。その後、Objective-CはAppleが改良を重ね、そのメモリ管理は同2.0で自動化されたかと思ったら、iOSに合わせてGrand Central Dispatchだか何だか、今度はC言語の構文を改良し始め、そう思ったらSwift言語を公開し、以来、私はmacOS/iOSデベロッパーではないのでよく知らない。
1988年の、小学生の頃にNeXTの発表会記事を雑誌で読んで以来、待ち焦がれたMac OS Xを私が触ったのは2002年になってから、それはアルバイトをして貯めたお金でPowerMac G4をようやく手に入れたからだった。その頃既に、Mac OS Xは10.1にバージョンが上がっていた。そして次の年、お金を払ってMac OS X 10.2 “Tiger”を買うことになる。
Objective-Cはよく分からなかったけど、Interface BuilderでコードとUIを結線する操作には度肝を抜かれたし(最近はSwiftUIで宣言的にUIを構築するようになったと聞くけど、この「結線」はまだ生き残っているのか?*1)
Omni Webで表示される、ヒラギノフォントのアンチエイリアスが掛かったWebページの美しさにうっとりしていた。
*1 調べた。nib/xibファイル自体が消えていた。バイナリファイルをバージョン管理するのが面倒というのはわかるけど、よくわからないで書いているどこぞのブログに「IBOutletで結線するのは面倒」と書かれていた。そう?全部コードで書くって、また時代が逆戻りしているじゃないか。CUIからGUIへ時代は進むと思っていたのだけど、どうやら私の勘違いだったようで。
「好きを仕事に」は子供じみている
あんなにも愛していたApple製品を使って私が仕事をするようになったのは、はじめてMac LC IIを買った1992年ではなく、なんと2022年、今年になってからだった。この30年間、一体私は何をしていたのか?
結局私はMacで仕事をしたいと四半世紀の間、思い続けてきたがそれが大半の期間、叶わなかったのでもう諦めた中年、という風に外部からは映るのだと思う。自分の夢を追いかけるのを止めた、つまらない奴だと。ちょっと違う。
「好きなことを仕事にしたい」というメッセージは世の中的には肯定的に受け止められているようだけど、今の私から見たら「野菜は嫌い、お菓子だけ食べたい」という子供のわがままにしか聞こえず、非常に幼稚であると感じる。しかし、当の子供にとっては「将来、どんな仕事がしたいですか?」などという幼稚園や小学校でなされる質問など、答えられるわけがないと感じる。「将来は外資系コンサルティング・ファームでバリバリ稼ぎたい」という子供はいないのだ。
確か私は幼稚園の頃、同様の質問をされて、そんなもの、わかるわけないのだから適当に「大工になりたい」と答えた。椅子も作れない私が大工になれるはずがない。最近になってようやく、シャワー付き便座を一人で設置できるようになったので内装業者くらいにはなれるかもしれないが、しかしトヨタ・ハイエースだとか日産キャラバンのような大きな車を運転する自信はないので内装業者にもなれないと思う。
話がずれた。「子供の頃の夢」というのは「子供じみた」という言葉が似合うような幼稚な願望であり、それが叶ったところで何だというのか?「夢とかどうでもいいからカネをくれ」という現金な子供もいるかもしれない。生活するのにカネは必要だが、使い切れない巨富というものを手に入れたとしても、それを一体何に使うのか?もし5兆円あったらどうする?当座の「貧困問題」なぞ、それで一旦は解決するのではないか?しかし当の億万長者ときたら、Twitterとかいう「終わらない大喜利と脊椎反射の喧嘩場」の買収にご執心だ。それが「大人の態度」か?他人に憎悪を振りまくアカウントを削除するな?それが「公平な態度であり発言権」だ?ナニ寝言抜かしてるんだボケ、権利の問題じゃねえ、道徳の問題だ!
さらに話がずれた。つまり私は唸り声を上げるMacBook Pro 8GBをまだまだ使い続けるという話だ。