21世紀の啓蒙を啓蒙する(1)

Hiroki Kaneko
10 min readFeb 16, 2020

--

投票者がバカになるよう誘導する選挙というシステム

なんだか外は市長選挙だかで選挙カーがうるさい。駅前では私が小学生だった当時、同じクラスだったI君が候補者の応援演説などしていたのだけど、向こうはこっちに気づくはずもなく。すっかり頭髪の寂しくなったI君を見るにつけ、「あぶない刑事(デカ)、あそこがデカ」と言ってはしゃいでいた、当時発売されたキリン「午後の紅茶」がうまいうまいと言ってがぶ飲みしていた、TVアニメ「魔神英雄伝ワタル」のヒミコ(声:林原めぐみ)が好きだと言っていた、当時のI君の面影すら無いなあと思い寂しくなった。小学校卒業以来、彼に何があったのかは知らないが、I君は市議会選挙にいつも当選する、地方によくいる「生まれも育ちも地元、地元大好き、地元を盛り上げたい」と思っている充実した人生を送っている1人なのかもしれない。私は彼に投票しないけど。だって「子供の頃友達だったから」という理由は、市政とは何の関係もないはずだ。市議会選挙レベルになると、駅前で候補者が選挙カーの上から「私はこの街が大好きでーす!イエーイ!」とカラオケ状態になっているのを見かける。だからどうしたと思う。市政でも国政でもいいけど、「経済成長すべし」と誰も反対しないような事を声高に叫んでいるだけのアホによくまあ投票するよな。きのうの夕方に駅前を通りがかったら3候補者それぞれがアホな主張を繰り返しており、支援者たちは「誰々さんは足を棒のようにして一軒一軒挨拶回りをしていただいて…」とどうでもよいサークル活動で上から下からお互いを褒め合うというゲロが出そうな光景が散見された。それより何が問題なのか、どのような政策オプションがあるのかを説いて回れよ。どうせ有権者は何も知らないのだから。私が良い例だ。

http://www.abu-deka.com/

民主制=選挙なのか

ここでいきなりスティーブン・ピンカー著「21世紀の啓蒙」の話になる。そして私はこの本の電子書籍版が発売される前に紙の本を買ってしまったので引用が非常にめんどくさい(Kindle macOS版はcopy&pasteできないよ)。なので、以下は正式な日本語版が発売される前にあらかた日本語訳をネット上に公開してしまったshorebirdさんのブログから日本語訳を引用する。このブログ記事(全80回)を読めば、正式な日本語版の80%を読んだことになる。なので私などが今更書くことなど無いのだけど。

民主制の押し戻しを説明しようとした「理論」は,民主制にはややこしい前提条件(例えば全体の善のために注意深くリーダーを選ぶようなよく教育された市民)が必要だと主張し,その失敗を断言した.

そんな基準で見れば,過去民主制だった国など1つもないし,将来も現れないだろう.選挙民は現在の政策オプションはおろか,基本的な事実についても無知なのが普通だ.質問がどう提示されたかで選好は移り変わる.政府のパフォーマンスのフィードバックにもほとんどなっていない.

政策にどのような選択肢が存在するのか、を有権者は認識していない。そして基本的な事実も知らない。原発問題で言えば、原子力発電の仕組みを説明せよと私の母に問うてもまともな答えは返ってこない(答え:湯沸かし器)。それで是非を問うても意味がないように思える。ちなみに私も地元市政の問題など知らないので、それとは関係なく、私の投票ポリシーは、とりあえず日本の政治家の男女比が笑ってしまう程後進国なので男女比50:50になるまでは、その女性候補が余程頓珍漢な事を言っているわけでなければ女性候補者に投票するという考えを持っている。とりあえず男性政治家の比率を下げれば、名誉だとかクソの役にも立たないサルの本能で戦争が始まるリスクが下がると私は思っている。人間というやつは脳ミソはサル並なのに武器といえば核ミサイルまで持っているのだから始末に負えない。

「選挙こそが民主制の本質だ」という広く共有されている信念とは異なり,選挙は政府が責任を持つメカニズムの1つに過ぎないのだ.専制的な人物が政権を争うときには選挙は単なる脅し合いのコンテストになる(プーチンのロシアが典型的だ).

では何故民主制はそこそこうまくやれているのだろうか.カール・ポパーは民主制について「それは誰が統治すべきかを決めるものではなく,統治者を流血なくやめさせる方法」だと論じた.ジョン・ミューラーは,それは「人々が統治についての不平を言う自由」に基礎をおいているのだと表現している.

もし民主政の本質が「統治者を流血無くやめさせる方法」であったり、「人々が統治についての不平を言う自由」だとしたら、そこそこうまくやれているのではないか?中国でだって、市民が中国共産党の政策を批判できる(一党支配以外は)。

そういう視点に立てば,民主制は何かとても難しいことが要求される仕組みではなく,最低限「人々を無秩序の混乱から守る」ことができそうな人に統治をまかせるものだということになる.これが極貧国で民主制が行き詰まりやすい理由なのだ.

シリアに関して言えば、内戦の混乱よりアサド政権の支配の方がまだマシだったということだ。

世界の大半はより理性的になっている.それはこれまでの章で見た通りの進歩を引き起こしてきた.しかし政治の世界だけが例外になっているのだ.政治の世界だけはルールが人々をお馬鹿に振る舞うように強制している.投票者はその意見を正当化する義務を負わず,その結果を引き受けることなく好きなことをいうことができる.貿易やエネルギーなどの実践的な政策はモラルイッシューとバンドルされてしまう.そしてバンドルされた政策の束は地理的,人種的,民族的同盟と結びつく.メディアは選挙を競馬のように報道し,イデオロジカルな問題を取り上げて激しい議論を煽動する.これらは全て人々を理性的な態度から遠ざけるように働く.この結果民主政の仕組みがガバナンスをよりアイデンティティドリブンで,非理性的なものにしてしまうのだ.

オイ聞いてっかI君?(彼がどのような政治的信念を持っているかは知らないが)だから私は地縁、血縁、幼馴染という理由で投票したくない。

政策は人々のガードレールたるべし

進化心理学の本を読むと、人間の脳は「自分に都合の悪いことは知らない大統領報道官」だとか「象と象使い」という風に例えられている。ロバート・クルツバンの例えでは、報道官は大統領の都合の悪いことは本当に知らないから、嘘をついているということにはならない。これを自己欺瞞という。ジョナサン・ハイトの言う象と象使いの例えでは、意識というのは象使いのようなもので、自分は象を制御していると思っていたら象に載せられているのだ、と。仏教の「無我」の概念もこれに近いかもしれない。意識というのは単なる傍観者であり、ではその意識が見つめている対象は「自分」と呼んでも良いのか?それは一体誰なのか?やはり自分は象に載せられているだけなのか?

ここから先は素人の私ではなく脳科学者にでも聞いてほしいのだけど、私は、どうもそれは本能とでも呼ぶべきものであると感じている。意識が交差点で赤信号を認識するわずか手前に、その何者かが筋肉を動かし、自動車のブレーキを踏ませているのだ。意識が考えなくても勝手に行動してしまう、その自動的な決断は進化の過程が人間の脳に与えたもののようだ。それは「意識」が長時間かけて熟考したのでは間に合わないようなとっさの決断をしてくれるので自分の命を守るために作られたものでもあろうが、それは人類600万年だか700万年だかの時間の99%を狩猟採集民として過ごした環境の中で、まあまあうまくやれていたシステムであり、社会状況がまったく変わってしまった現代においては人類は「バグだらけの脳を抱えている」と考えたほうが良さそうだ。

「外部集団を悪魔視して、だから殺しても良い」と考える?まあいいでしょう、狩猟採集民のあなたは一生他の部族に合わないのだし、戦争になっても武器は打製石器しか持っていないのだから。しかし核ミサイルまで持っている現代、そのような考えだったらどうする?人間の脳は、一生の殆どを過ごす内部集団と個人との間の軋轢を調整するように設計されており、集団対集団の軋轢には対応しきれるようには作られていないのだ。これが外交問題なのだと思う。

だから「私が候補者Xを支持する理由は、私がそれを好ましく思うからだ」という理由は理由にならない。人間の本能は既に老朽化した、レガシーシステムのようなものであるからだ。何が正しくて間違っているのか、決めるのはエビデンスでありデータであってほしい。そしてエビデンスベースで決められた政策、法律、規制は人間をサルに引き戻さないためのガードレールのような役割を担ってほしいと思う。山道を運転しているドライバーは、ガードレールを見て「何だ、俺をバカにしているのか、こんなもの無くても崖に落ちずに運転できるぞ」と思うだろうか。ほとんどの人は気にもとめないと思う。しかしそのおかげで、万一運転ミスをしても崖には落ちないようになっているのだ。それでこそ私は本当はサルなのだが幸せな人間として生きられるというものだ。私のようなサルを誘導してくれ、道を踏み外さないように。

「選挙活動をまるでサークル活動のように感じ、選挙結果を競馬のように扱う」のはもう飽き飽きだ。わかったかI君?政治なんかくたばれ。

続く。

--

--

Hiroki Kaneko
Hiroki Kaneko

Written by Hiroki Kaneko

自営業のソフトウェア技術者。Airbnb TOP5%ホスト。サイクリングと旅行が趣味。

No responses yet