21世紀の啓蒙を啓蒙する(3) 最悪なことは思ったほど起こらない。しかし最悪を想像してしまう気持ちはよく分かる。だからこそ理性で乗り越えよう
帰省にどれくらいのリスクがあるのか
今月中に一度、引越し先の大分から神奈川の実家に帰省しようかと思っていたけど、止めにしようかと思っている。特に用事は無いし、皆が騒ぎに騒いでいる新型肺炎を母にうつしたら嫌だと思ったからだ。ちなみに今の所私に風邪の症状は無く、どちらかというとストレス性の蕁麻疹が出ていて痒くて仕方がない。
齢70を過ぎた両親、特に母は体が弱く、歯科医院で麻酔の注射を打たれただけで目まいがして帰宅できなくなったりする程なので、肺炎になったら、もしかしたら死んでしまうかもしれない。それを思うとなかなか帰ることも出来ないが、果たしてそんな最悪の事態は確率的に起こるのだろうか?
日本では毎年3000人以上の人が交通事故で死ぬ。全世界ではそれが50万人にもなる。それなのに「車に乗るのを自粛しよう」とか「外に出ると車に轢かれて死ぬので“家にいよう、みんなのために”」とか「電車に乗ろう」とは一言も言わない。なぜだ?簡単だ。皆が騒がないからだ。皆が騒がないので本人も気にもとめず、それが自分の身に降りかかるとは事故に会う直前まで考えもしない。交通事故だろうと新型肺炎だろうと、家族が死んで悲しいのは同じだ。それなのにほとんどの人は、あるリスクを過大評価しすぎて、以前から存在している他のリスクは頭の中から消えているようだ。
もちろん新型肺炎を予防するに越したことはないので、こまめな手洗いと、手洗い前に顔を触らないこと、風邪の自覚症状があるならマスクをして他人に移さないことは周知徹底しなければならないとは思う。しかし、予防とはそれくらいではないのか?風邪の自覚症状も無いのにマスクをすることを強制している小学校(いまは休校しているけど)などは何なんだ。自覚症状の無い保菌者が他人に移す可能性については、ちょっと調べたけど、どちらの言い分もあるものの、決着が付いていないようだった。
日本人男性が生涯でがんで死ぬ確率は3人に1人だそうだ。恐れるべきは、流行り病よりも、常に存在する脅威・がんではないだろうか?確率的に言うと、そういうことになる。
カーネギー少年の悩み
「デール・カーネギーの悩まずに進め*1」だったか、とにかく自己啓発の古典に書かれていた話を思い出す。
私はこの本をオーディオブックで聞いたので手元に本が無く、探すのが面倒なのだけど、調べたところ第8章に書かれていた。
幼い頃の著者は、様々な恐怖に震えていたという。自分は雷に打たれて死ぬのではないか?生きたまま埋葬されるのではないか?自分と結婚したいと思う女の子が生涯現れないのではないか?クラスメイトが宣言通り私の耳を切り落とすのではないか?
年が経つにつれて、悩んでいることの99%は決して起こらないことが次第に分かってきた。例えば、既に述べたように私は雷を怖がっていた。ところが1年間に雷に打たれて死ぬ確率は、全米安全性評議会によると、35万分の1にすぎない。生きたまま埋葬されるというのは、もっと馬鹿げている。そんな目に遭うのは、1000万人に1人しかいない。そうとは知らず、私は生き埋めにあうことを恐れて泣いていたのだ。
一方、8人に1人は癌で死ぬ。私が何かを恐れなければならないとしたら、癌を恐れなければならなかったのだ。雷に打たれたり、生き埋めになるのを恐れる前に。もちろん、今私がしたのは子供や少年がするような心配のことである。しかし大人がする心配だって似たりよったりである。私達も、くよくよ悩むのをやめて、それらの悩みが確率論的に見て実際に起きうるかをしっかり考えれば、悩みごとの10に9つは消えてなくなるだろう。[PART3] 第8章 取り越し苦労に取りつかれないための科学 より抜粋
この本が書かれたのは戦後まもなくということもあり、本書に書かれている「最新の科学」だとか「最新の心理学」だとかというのは現代では全く否定されているものが多いので話半分に聞くのが良いと思う。しかし確率論くらいは時が経っても古くはならないので、信じてもよいだろう。
しかし人間の本能は、確率論を理解するようには作られていない。一日じゅう、朝から晩まで特定のリスクに関するニュースばかり聞かされていては、それが今、自分に降りかかる最大の脅威だと考えてしまい、確率の計算などしない。
(CNN) 新型コロナウイルス感染による米国内の死者は11日までに2万人を超え、イタリアを上回って世界最多となった。
米ジョンズ・ホプキンス大学の集計によると、米国内で報告された死者は11日の時点で2万389人に達し、イタリアの1万9468人を上回った。
今後も新型肺炎による死者数は増大するとしても、今の所、アメリカに住んでいて新型肺炎で死ぬ確率よりも交通事故で死ぬ確率の方が高い。同国では1年間に約3万人が交通事故で死んでいるからだ。
なぜ具体的な数字で示されても、やはり交通事故より新型肺炎の方が怖いと思うのだろうか?それは人間の脳が、数字を使って統計的に物事を考え、判断の材料にするようにできていないからだという。
もちろん交通事故と伝染病を比較できないのは他にも理由があり、今の所新型肺炎はどこまで流行して、死者数がどこまで上がるのか分からないからだ。ゆえに怖い、という気持ちがよく分かる。しかし流行が一段落した中国の例を見ていると、死者数のカーブは山型で一度頂点に達したあとは下がるようだ。
心理的障害のひとつ目は「認知」である。世間の人々は規模で考えることが苦手で、どの行動がどれだけの二酸化炭素の排出量を削減するのか、それは何千トン規模なのか、それとも何百万トン規模なのか、何十億トン規模なのかを区別していない。また濃度や割合、その変化ペース、ペースの変化率、さらに高次の導関数の違いについても無頓着だ。どういった行動を取ると、二酸化炭素排出ペースに作用するのか、排出ペースの増加率に作用するのか、あるいは大気中の二酸化炭素濃度に作用するのか、世界の気温に作用するのか(二酸化炭素濃度が現在のままでも気温は上昇する)、その区別もしていない。しかしこうした問題について最新の情報を知った上で、変化の規模や種類についても考えなければ、何一つ成果の出ない政策をよしとすることになりかねない。
21世紀の啓蒙 第10章より
肺炎で亡くなる人はかわいそうだし、死亡者の数が痛ましい数字であることに変わりはないのだけど、騒ぎすぎの感がある。存在する他のリスクを全く無視して、新しく登場したリスクばかり過大評価し、騒ぎ立てるのは勘弁してほしい。計算ができず、騒いで他人と同じ行動を取っていればよいだろうと考えているだけの奴らを見ると、マスク2枚でどうにかなると思っている日本のノータリン野郎や、いつ外出制限を解くかはジョンズ・ホプキンス大学の統計を見ながらではなく「俺の頭で判断する」と言い切ったアメリカのサイコパス野郎を支持したくなる。
余談:鉄鋼王ではない方のカーネギーとは何者なのか?
しかしまあ、デール・カーネギーって何者なんだろうね?著作を読むと、若い頃に作家を志してイギリスへ渡ったが全く芽が出ず、その後は有名人のマネージャーをして各地を興行したり、ニューヨークで社会人向けの話し方教室を開いて、その経験をまとめた本が売れて…というキャリアだった。その他にもニューヨークでのトラックのセールスマンやら、ブロードウェイで興行師のようなこともしていたようだ。この一貫性のないキャリアを見ると、コイツ信用できるのか?と思うが、同時代のアメリカ人というのは皆このようなキャリアなのだろうか?カーネギーの親はアメリカ南部の貧しい白人農家のようで、息子も生きるためにいろいろな仕事を転々としていた…ということかもしれない。どうもアメリカというと、戦後から金持ちになった日本と違い、「最初から金持ち」というイメージがあるので、このような本を読むとアメリカ現代史のようで興味深い。
*1 ちなみにカーネギーの「悩まずに進め」は著者晩年の作というだけあって、何があっても「神に委ねよ」とするような態度、ちょっとキリスト教臭いのが非西欧文明圏の読者としては共感できない。著者の代表作「人を動かす」は、そこまで宗教的ではなかったので、加齢と共に著者に心境の変化があったと思われる。「避けられない運命は受け入れよう」という意味で「神に委ねよ」という言い方をするので…。