YokotaとYokosukaとプログラミングスクール
16号線が分ける
数年前、車で国道16号線を通った時に車窓から見たのが私にとっての福生の初体験だった。その時車から降りて街を歩いたわけではないけど、その時の印象というのはアメリカ兵のいる横田基地と、日本人がいる区域が16号線できっちり分けられているなあ、という感じだったし、アメリカ兵の商売をしている店も、開店してるんだか閉店してるんだかよく分からない、眠ったような街だという印象を受けた。
どぶ板1992
私は神奈川県出身なので、アメリカ軍基地というと横田ではなく、横須賀の思い出が深い。私がそこに通ったのは1990年代前半なのだけど、あの頃のどぶ板通り(ビデオゲーム「シェンムー」シリーズによって日本人以外にも有名)は、既にアメリカ兵相手の店というより、スカジャン(龍やら虎やらの刺繍の入ったジャンパー)を日本人相手に売る店が多かった記憶がある。
インターネット以前のアメリカ文化
上記のビデオでインタビューを受けている人たちは、アメリカ文化が好きで、ロック音楽が好きで、という人が大勢見受けられたけど、この21世紀、日本人でそのようなことを言う人はいるのだろうか?いや、ハリウッド映画を見ている日本人は大勢いるし、ジーンズを履いている日本人も大勢いる。しかしそれを「アメリカ文化」として享受しているのか?というと、どうもそうではない気がする。そこに憧れはなく、その映画やパンツが作られた地域がアメリカだろうが、他のどこだろうが関係はないだろう。
私のアメリカ2019
去年の夏、2人のアメリカ人の若者と会った。彼らは偶然にも2人共ニューヨーク出身であり、一人はギリシャ系でアーティスト、もうひとりはスリランカ系で臓器移植コーディネーターをしている人だった。
ギリシャ系の彼は、私と一緒に歩いていると急に立ち止まり「ちょっとまって、ここ、アメリカでは捕まえられないポケモンがいるから!」とスマホから虚空に向かって何かボールのようなものを投げていた。そして一緒に鎌倉駅前のトルコ料理店で昼食を食べた時「トルコもギリシャも地中海料理の一種なので、自分にとっては親しみのある味だ」と言っていた。
スリランカ系の彼は、地元の盆踊りに招待したら「この踊りはインド・スリランカ系の民族舞踊に似ている」と不思議なことをいっていた。
どちらの彼も、生まれも育ちもニューヨーカーながら、自分のルーツというものをしっかり持っているように感じた。
インタビュー動画に出ていた初老の男性 — — 彼は若い頃「突っ張って」おり、何をするでもなくアメリカ兵がたむろするディスコなどに通っていた — — が、もし21世紀に生まれて上記2人のアメリカ人を見たら、アメリカへの憧れというものは湧き出てきただろうか?なんかもうそういう時代じゃない。「アメリカ人というのは白人か黒人かどちらかであり、日本のようなアジア文化とは一切関わりのない文化的背景を持つ」などという時代はとうに過ぎ、私と同じ世代のアメリカ人なら、子供の頃から車やカメラ、ビデオゲームなどで日本に親しみ、最近の若いアメリカ人は子供の頃から日本のアニメやら漫画やらアイドルやらのポップカルチャーに親しんでいる。一方、日本人の子供はスパイダーマン映画の新作をiPadで見られる日を楽しみにしている。よかったよかった。
自分の命が過去から続いた結果である以上、過去を無かったことにはできない
YouTubeのコメント欄って何でこんな頭の悪い奴ばかりなのか知らないけど、世の中の森羅万象と宇宙の法則すべてに政治的な意味があると思っているド低脳がアメリカ軍基地が日本に必要だとか不必要だとか、そこへ至るまでの歴史的経緯を一切無視して語っている。良いものも悪いものもすべて理由があって過去から今ここに存在しているのだから、それを否定することは現在を否定することになってしまう。
システム開発で例えると、某社の基幹システムは「何でこんなになったんだ」と思うほどの「そびえ立つクソ」であり、「こんなもの、全部捨てて一からやり直しましょうよ」と提案したところで「そんな金と時間がどこにあるんだ?」と言われて終わる。システム開発ではこのような状態を「技術的負債」と呼ぶのだけど、「歴史的負債」だってあるんだ。それを一切考慮しない発言をするやつを見ると、過去の愚かな自分を見ているようで、頭悪いなこいつ、と思う。
若いシステムエンジニアは言う。「こんなダセーシステムは全部捨てて、これから俺らが、まだ誰も作ったことのない、まるで異星人がUFOに乗せて運んできたような未来のテクノロジーで“なんかすごいかっこいいもの”を作ってやる!」しかし技術的負債の前になすすべもなくトーンダウンする。そして私のような諦めた中年になる。これは諦めたことになるのだろうか?「身の程」を知っただけだ。現実を正しく捉えられるようになっただけだ。
学校へ行けば教えてくれる?そんな受け身の奴は要らない
Aさんが通っていたスクールでは、就職先を紹介してくれることになっていたが、紹介される会社や職種は、Aさんが望むものではなかったという。
「自社でアプリ開発などをしている企業に行きたかったのですが、SES(ITエンジニアの技術者派遣)が多かったです。自社開発に挑戦したかったので、条件に合う企業を見つけるのは難しいと思いました。スクールを出ただけではスキルが足りず、やりたい職につけるわけではないと思い知りました」
学校で何ヶ月か授業を受けた以外では全くの素人で、何を作れるというのか?プログラミングスクールの良いところ?就職先を紹介してくれるところかな?それがSESだと駄目なんだという。それの何が悪いのかよくわかりませんが、「自社でアプリ開発」したかった?それが目的なら、まず自分でアプリ作ってみて会社も自分で作ってみれば?としか…。
プログラミングスクールへ行った皆さん、その学校は「日本の自称IT企業の99%はSESつまり技術者派遣で食っている」とは教えてくれないでしょう?だってこんなつまらない現実を教えたら、学校に生徒が来なくなってしまうから、教えてはくれないと思います。SESが悪いのかどうかは知らないけど、とりあえず給料をくれるので私は良いと思っていますよ。それが嫌なら「バンド組んでヒット曲を作ろうぜ」と同じ程度の成功確率で、自社サービス事業会社を作ってみる?
これ私の偏見かもしれないけど、大学漫研出身の漫画家って下手じゃない?本当に才能のある人は、学校だのサークルだのに所属しなくても才能を発揮しているように感じる。
このように考えると「技能は教育できない」という絶望的な結論に陥ってしまうけどそうではなくて、目標があるなら自分で動ける筈だし、それを「学校に行けば教えてくれるだろう」などと受け身に思っている時点で、技能がどうというよりも見込みがない、と感じてしまう。
私が物覚えの悪いバカなだけかもしれないけど、プログラミングスクールの数ヶ月で何が分かるんだ?私がティーンエイジャーの頃から読み込んできた技術書、それはほとんど捨ててしまったけど、全部まとめたら高さ2メートルの本棚が全部埋まるくらいだ。これを数ヶ月で読めるのか?少なくとも私は読めないし、技術書はパラパラとめくって「ふーん」と納得しただけでは身につかず、そこに書かれたコードを実際にPCに打ち込み、うまく動かず、また別のところを調べ、それが更に別の問題を…と、この時点で殆どの人は脱落するのだけど、このサイクルが非常に時間がかかるし、私はこのサイクルを繰り返さなければソフトウェア開発は身につかなかったと思う。それは学校でカリキュラムをこなせば身につくようなものではないと感じる。少なくとも、物覚えの悪いバカの私にはそうだった。「1を聞いて10を知る」タイプの、頭の良い皆様はどうか知らん。
“JUST FOR FUN” (僕にはそれが楽しかったから)というのは、中指立てた写真でおなじみのオッサン、リーナス・トーバルズ自伝の題名だけど、私にもプログラミングというのは楽しかったから、興味をもって自習ができた。
「勉強というのは、テストで良い点を取ることが目的ではなく、出来なかったことができるようになること、分からなかったことが分かるようになること、そのためにはどうしたら良いのか?が勉強だと知った」
すなわち先程の例で言うと、私が問題の入れ子に悩んでいたことこそが勉強なのだと後で知った。
無理やり話題をアメリカに戻すと
米軍兵士だったけど辞めて、アメリカで大学に入り直したという話をよく聞くけど、その間の生活費ってどうしてるんでしょうね?学年=年齢で固まってしまっている日本では聞かない話だ。どちらが良いのかはよく分からない。しかしアメリカでの学位というものは自動車の運転免許証と同じで「無ければ駄目」なものであり、日本のように「あれば尚良し」ではないのだ。そういう意味でも、私が日本に生まれたのは僥倖だったと思った。