いじめがなかった時代などない。「懐かしい」と「昔はよかった」はイコールではない:矢口高雄の漫画を読む
数年前に亡くなった漫画家・矢口高雄の漫画をAmazon Kindleで読む。この人の魅力はなんといってもその絵の巧さで、故郷・秋田の山河を驚くほどの緻密さで描いているのは7インチだか6インチだかのKindle Paperwhiteでもよく伝わってくる。
・ボクの手塚治虫
→手塚治虫の漫画を読んで心をときめかせた少年時代。しかし絵だけで言えば矢口高雄の絵は手塚治虫より数段上。話は…どうだろう。矢口高雄は自分のみに起きたことをエッセイ的な漫画にすることに長けており、漫画家というより「超絶絵のうまいエッセイスト」といった印象だけど、ストーリーテラーとしての手塚治虫は、なんというかその引き出しの多さが別格なので。
それにしてもこの本の表紙をデザインした奴、赤と青というどぎつい原色を2つも使ってセンスなさすぎだ。デザイナーなどと称するのはやめて田舎に帰るか、脳の病院へ行くか、どちらかだ。
・螢雪時代
→自称・優等生だった中学校時代。3つの中では一番つまらないと感じた。後述。
・9で割れ!!
→12年間の銀行員時代を描く。ソロバンで計算、新卒者に集まってくる保険外交員、銀行に宿直など、当時の地方の銀行とそこで働く人たちの様子が伝わってくる。これが一番おもしろかった。
蛍光ブルーの背景…。これでデザイナー…。
「少なくともボクらの時代にはそんなことはありませんでした」
そうか?嘘つくんじゃないよ。古今東西、いじめのなかった国や時代などというものは存在しない。
上の記事、読んだ?ケニア人記者による自身のいじめ(られ)体験。
──時を経て現在。ケニアの学校で “いじめ行為” は認められていない。
もしも生徒が、言葉や行動で他の生徒を脅迫したり嫌がらせしたり、すなわち “いじめ行為” をした場合、その生徒は永久に帰宅させられる。永久の帰宅=停学 → 退学だ。
そのような処分を受けた生徒は、引き続き教育を受けるため別の学校を探すわけになるが、受け入れられるのは非常に困難。
現実的に、転校をすることは無理だろう。つまり現在のケニアでは、「いじめたら、もう学校には復帰できない=学業終わり=人生終わり」なのだ。
それくらい、いまのケニアではいじめに対し厳格に対処している。「いじめたら人生終わり」くらいの勢いで。
世界中どこにだっていじめはあるし、それを「子どもの世界の話」だとして無視せず、厳格な対策をしている現代社会の方が幸せに決まっている。それを過去の嫌だったところは健忘症になって全て忘れた上で「少なくともボクらの時代にはそんなことはありませんでした」?
笑わせるな、三平、しゃぶれ、という感じ。
人はだれでも一定の年になると昔を懐かしみ、それをサウダージだか、郷愁とかいう言葉で表現する。しかし「懐かしい」と「昔はよかった」はイコールではないのだ。ひどい時代であっても「懐かしい」と思うし、それは「昔はよかった」ではない。混同するなよ。
そういった次第で、この漫画が描かれた30年後に読むと明らかに間違っているところがあり「螢雪時代」は1巻以降、あまり読む気がしなくなってしまった。「9で割れ!!」はとても良かったので、お薦めします。
8月11日追記
(子供を田植えなどの労働に従事させることは)同時にやさしさや思いやりの心をはぐくむ場でもありました・今日社会問題となっている”登校拒否児童”を生み出している背景はここにあるのではないでしょうか
おい、児童労働をしないから登校拒否児童が生まれる、とめちゃくちゃな事を言っているぞ。児童労働は結果として子供を学校から遠ざけただけだ。
当時の言葉でいう、いわゆる「登校拒否児童」は「やさしさや思いやりの心をはぐくむ場」を与えられなかったから?では何も考えずに毎日登校している奴らは「やさしさや思いやりの心をはぐくんだ」から「少なくともボクらの時代にはそんなこと(いじめ)はありませんでした」と言いたいのか?
ふざけるなよ、三平、ブチ込むぞ。
学校にいけなくなった理由は、人それぞれなので原因を一つに特定することはできない。
児童労働は子どもたちから学校に行く機会を奪った。
ではなぜ学校へ行かない子供がいるのかというと、原因は一つではないでしょう。それは「学校でいじめられた」からかもしれないし、学業不振、家庭の事情、あるいはそれらの複合的な要因、など人の数だけ原因はあるはずで、ひとつに特定できるはずがない。
人間の性格はそれぞれ違うのに、なぜ画一的な教育をさせられるのか?
その評価基準に「たまたま適した」人間が「優等生」と呼ばれ、先生に可愛がられると。
「やさしさや思いやりの心をはぐくむ場」って、児童労働だけなのですかね?というか、児童労働は重労働なだけで、それで「やさしさや思いやりの心をはぐくむ」ことって、できるんですか?
この「螢雪時代」という漫画を読んでいると、著者の中学生時代がいかに楽しくて輝かしいものだったか、というのが嫌というほど描かれているのですが、私にはそれは「キラキラしたことしかSNSに投稿しない有名人」と同じで、それは人生の本当の姿ではないと感じる。
昔は皆が貧しかった。だから、何か困った時に他人を助ける、ということは、自分が困った時に誰かから助けてもらうためであり、これは「優しさ」とは違う。生きるために必要だからやっていたことだ。
チンパンジーの研究でわかってきたことは、「互恵行動」というものは、それによって集団内の協力を促し、結果として自分が生き残るためだ。人間が勝手にこの「サルの本能」を崇高な「道徳」として美化しているだけだ。これが道徳の正体だ。
では今は「昔と比べて冷たい」のか?「隣人との助け合い」の代わりに「政府の社会福祉」がそれに代わっただけだ。
「昔の人々は暖かかった」のか?矢口高雄の故郷からほど近い、山形の鉱山町に生まれた私の母に聞くと「田舎はいつも誰かが誰かの噂話をしていて生きるのに窮屈だった。都会の方がずっと良い」と言っている。
この漫画が描かれてから30年以上経ち、これらの主張がまったく狂人のセリフにしか聞こえなくなっている。というか、「誰もが陥りやすい錯覚」に陥っているところを「30年後の後知恵」で私が見ているだけだ。
私が漫画の内容にケチを付けたところで、矢口高雄の生前の業績は傷ひとつ付かないだろうし、私は彼の絵の巧さについて、まったく尊敬している。
しかし私は元いわゆる「登校拒否児童」として、「イナカのガッコじゃ一番の秀才・優等生」であった矢口高雄の主張など、とうてい受け入れられない。
この海、描けます?少なくとも彼が尊敬していた手塚治虫は絶対に描けなかっただろう。