アメリカの歴史教師のレベルの高さよ/日本にこんな先生、いる?/終戦記念日を前に
Mediumのお勧め記事というのを題名だけ読んでいると、「Say goodbye to A, Hello B」だとか「2022年に学ぶべきプログラミング言語」だとか、まあ毎年毎年同じような記事を書いてよくコイツラ飽きないよな、とあくびが出るような記事 ばかりなのだけど— —大抵が英語の記事であり、私が最初に登録した興味事項に基づいて推薦されている — —たまーに、良い記事が推薦されてくるので目を通すことを止められない。
おそらくアメリカ在住の、おそらく中学か高校の世界史の先生が書いた「第二次大戦はあなたが考えているようなものではない」は、とてもよくまとまっていた。特に、自分が所属していると思われる側(ここではアメリカ/連合国側)だけが正義ではない、という客観的な視点から日系アメリカ人の強制収容や、広島・長崎への原爆投下は戦争終結を早めるために必要だった、というアメリカでは一般的に信じられている説にも疑問を投げかけている。
比較的よく知られている(そして殺人事件がまったくないことから、比較的軽微な)アメリカのモラルの高台での汚点は、戦時中の日系アメリカ人の強制収容でした。10 万人以上の日系アメリカ人が、その民族性のみを理由に逮捕され、米国西部の強制収容所に入れられました。1942 年の世論調査によると、アメリカ人の 90% 以上が同胞の強制収容を支持していました。
「残虐行為」という言葉にもっとふさわしいのは、終戦時の連合軍によるドイツと日本への爆撃でした。広島と長崎への原爆投下は戦争を即座に終結させ、侵略よりも何十万人もの人々(日本人を含む)が殺されなかったという非常に有効な議論がある. それにもかかわらず、10 万人を超える民間人の死亡者数と同様に、体から皮膚が垂れ下がっている子供たちの話は、腹を立てるのが難しいです。
どちらの原爆よりもさらに致命的なのは、1945 年 3 月 10 日の東京焼夷弾です。ある夜、アメリカの爆弾とその後の(意図された)火災の嵐により、10 万人の日本人民間人が死亡し、さらに 100 万人以上がホームレスになりました。言い換えれば、1941 年から 1945 年までの太平洋戦争全体でアメリカ兵が死亡したよりも、これらの 3 つの個別の爆撃事件で死亡した日本の民間人の方が多いということです。これらの事件がドイツ人または日本人によってイギリス人またはアメリカ人に対して犯された場合、これらの事件を残虐行為と見なすだろう.
日系アメリカ人への強制収容については、私は「生まれも育ちもアメリカなら、その人はアメリカ人だろう。強制収容するのはおかしい」と思う一方、生まれも育ちもイギリスでイギリス人である筈の北アフリカ系イギリス人がイギリスでテロ事件などを起こしているのを見るにつけ、そういう事をするから移民が偏見の目で見られるんだよバカ、と感じる。
原爆投下が戦争終結を早めたとする説に関しては、敗色濃厚だった日本への、止めの一撃になったのであろうことは明白だから、これを完全に否定はできない。だからといって市民への無差別爆撃が許されるのかという点においては、ロシア軍による、チェチェンやシリアやウクライナへの爆撃の仕方に腹を立てるのと同じ感情を持っている。そしてこの21世紀、アメリカ軍はアルカイダのトップだけを狙い撃ちするような「戦争」を行っている。
原爆だけ特別視しない、これが「公平な視点」だと思う
どちらの原爆よりもさらに致命的なのは、1945 年 3 月 10 日の東京焼夷弾です。ある夜、アメリカの爆弾とその後の(意図された)火災の嵐により、10 万人の日本人民間人が死亡し、さらに 100 万人以上がホームレスになりました。言い換えれば、1941 年から 1945 年までの太平洋戦争全体でアメリカ兵が死亡したよりも、これらの 3 つの個別の爆撃事件で死亡した日本の民間人の方が多いということです。
私の住んでいる市では、毎年8月6日と9日になると防災無線から「広島・長崎の原爆投下によって亡くなった方の冥福と恒久平和を祈るために黙祷しましょう」と流れる。なぜ原爆だけ特別視するのか?原爆の死者数と、その他60以上の日本の都市への空爆での死者数を数えれば後者のほうが多いのであり、後者で死んだ人はどうでもよいのか?ホームレスになり、餓死や、病気で二次的に死んだ人はどうでもいいのか?と感じる。
結局、これが核兵器から原子力発電の反対へ至る「無知ゆえの恐怖」であり、原発反対とか言ってる奴らは原子力でどのように電気が起こせるのかすら理解もしていなければ(湯沸かし器だ)、その「危険だ」という放射線レベルの、どこまでは恐れなくてもよいか(レントゲン写真など)、どこからが恐れるべきなのか(原子炉に入るなど)その閾値も知らないのだ。
問題があってもそれを直視できるアメリカの方が日本より客観的、理性的といえる
当事者があらかた死に絶えた第二次大戦ではなく、ベトナム戦争の映画をテレビで見ていた時に私は思ったのだけど、そのベトナム戦争映画は決して「アメリカの正義」だけを声高に叫ぶものではなく、隊長の判断ミスと仲間割れによって次々と隊員が死んでゆく、といった戦争の悲惨さを強調した内容だった。これ、日本でこんな映画、作れる?当事者があらかた死に絶えた第二次大戦でも、まだ「永遠の0」だとか「男たちの大和/YAMATO」だとか、アホみてえな映画ばかりで、ピンカーのいう「ロマン主義的軍国主義 romantic militarism」から抜け出してないじゃないか。その権威主義、ナショナリズム、ポピュリズムの源泉である「ロマン主義的軍国主義とかいう中二病の一種」のせいで何千万人が死んだのか?しかしこれは戦前の、頭のおかしな一部の人間たちだけで共有された認識だったのか?戦後になったら皆そのような考えを捨てたのかと言われたら、とてもそうとは言えない。日本だけで考えれば戦後も、ロマン主義的軍国主義にアタマをやられて、小説家なんて今じゃ全く偉くもなんともないけど昔は「芸術家は社会をリードする使命がある」と勝手に増長していた三島由紀夫とかいう粋がったチビもいましたし、トランプの「アメリカを再び偉大に」という後ろ向きスローガンと全く一緒の「日本を取り戻す」と言っていた安倍晋三とかいう政治家もいましたなあ。「何の説明もなく何かを失った前提になってるのはなぜ?」と私は思っていた。
後ろしか向いていない人間に未来を任せるというのは私には理解できない。しかもその後ろについての認識がまったく的外れなら尚更だ。「過去のほうが良かった」と言う人たちは全員、現代に至る人類の進歩を全否定しているからだ。人類が進歩していない?御冗談を。おい、あいつらからスマートフォンを取り上げて代わりに伝書バトでも与えておけ。
アメリカに問題がないわけではないし、アメリカに住むより日本に住むほうが良いと思われる理由は、「市民が銃を持っていない」と即座に思いつくほかも国民皆保険制度など、沢山ある。しかし私がアメリカ社会の方が羨ましいと思う理由は、自浄作用があって前へ進めることだ。バカも沢山いるが、頭の良い人間も沢山いるという他に、やはり世界中から人が集まってくるのだから、様々なアイディアが混ざって良いものが生まれるのは、他の国が真似できないアメリカの強みだ。それを正しく認識してるのが、下の動画の士官学校の校長のような人で、自分の首を絞めているのにも気づかないような残念脳ミソがトランプとそのフォロワーたちだ。
果たして石原慎太郎や安倍晋三は、防衛大学校でのスピーチで、この米空軍士官学校校長のような感動的な物言いができただろうか?できるはずがない。人間としての器が違いすぎるからだ。
そろそろ問題の根本原因を認識した上で解決のための奮闘をしなければならない
なぜ物事を政治問題化するとまともな議論ができなくなるのか?決まっている。生物の本能が「自分は自分であるという理由だけで他人に対して優越しない」という、当たり前のことへの理解を拒むからだ。そして「自分は自分であるという…」を認識できるのは、全生物中で唯一、人間だけだというのにそれを認識できないのであれば、その人間はどんなにご立派な肩書きがあろうが、私にとってはミジンコと大差ない。あなたのその考えはあなたの心の声でもなければ思索の結果でもない。生まれたときから脳に刻み込まれた「工場出荷時設定(デフォルト)」だ。そしてそれをロマンティック・ミリタリズムのように「高潔な考え」であると誤解させるのもまた、脳の工場出荷時設定でしかなく、あなたの考えではない。
本能が美しいだろうか?まあそういう場面もあるだろうが、大抵の人間は食っちゃ寝食っちゃ寝している人間を高潔だとは思わない。「楽したい」というのは、全生物が持つ本能だ。ロマンティック・ミリタリズムだって、そのように「自分が所属する集団のために自己犠牲を払う」のは、単に自集団の中で自分をかばって欲しいがための、集団内のディスプレイでしかない。世界の様々な地域には、自分の体を傷つける宗教行事があるが、あれも単なる「自分を構ってほしい」からに過ぎない。
→自分かわいさ
→自集団の中で自分を保護してほしい。自分は生き残りたい
→自分は集団の掟を守る<模範的な人間>であるとのディスプレイ
→自己犠牲
→自己犠牲は高潔であると考える人間がより多く生き残ってきた
→自己犠牲で死んだ人間もいるが自然法則はそのような哀れな人間に情けなどかけない。いくら死のうが、何人か生き残れば良い
自己犠牲は高潔ではない。その根本にあるのは、「自分かわいさ」だ。極めて自己中心的な考えだ。
仏教に「捨身(しゃしん)」という言葉がある。ブッダは前世で、飢えたトラの親子に自分を食べさせたというエピソードとともに語られる言葉だ。
トラの親子はそれで、一週間くらい食いつなぐことができただろうが、その先はどうなる?飢え死にしては意味がない。本当にトラを救いたいなら自然保護区を設定してお互いが生きる道を探ることだ。それには観察、計測、評価、改良などが必要になり、その判断材料とは数学、統計学だ。
衆生(生きとし生けるもの)を救うには、まず数学を勉強しろと、ブッダやイエスやマホメットに言ったらどうだろうか?しかしそれこそが現代に必要な、客観的な判断だ。
今のところの結論
・証拠もなしに進化論を否定するキリスト教系学校・地域がある一方で、今回の先生のような立派な人物がいるアメリカに懐の深さを感じる
・自分かわいさという本能のおかげで、自集団への批判的な物言いに反感を感じる。これでは客観的に真実を調べることができない
・自己犠牲という自集団への「良い子ちゃんアピール」は尊い行為でもなんでもなく、自集団の中で自分を特別扱いしてほしい、それによって生きながらえたいという本能に過ぎない
・これらの本能が人を真実から遠ざける。これら本能、偏見、バイアスがあることを自覚しなければ白黒つかないことへの結論のない言い争い=政治問題化してしまい、先に進めない