シンガポールで見た菜食主義者の光景と、日本語ネット上でお互いを罵り合う学のない奴ら

Hiroki Kaneko
Oct 10, 2022

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湯葉を使った鰯モドキ、厚揚げ肉骨茶など。ゆで卵は動物性だが、無精卵なので「動物を殺さない」ポリシーに合致している(筆者撮影)

9月にシンガポールへ行き、菜食主義者の家にホームステイした。そしてホストファミリーの手料理以外にも、外で色々とベジタリアンフードを食べて分かったことは、シンガポールのような所に住んでいる場合、「肉を食べない」という選択肢は「我慢する」と同義語ではないということだった。おそらく中国南部の仏教徒による精進料理(素食)にルーツを持つその食文化は、種類も多く、また美味でありお腹もいっぱいになる。

シンガポールのベジタリアンレストランで注文した料理の数々(筆者撮影)

しかし私は菜食主義者になるつもりはないので、チキンライスや肉骨茶などの肉料理も食べた。

ホーカーセンターの肉料理。チキンライスとサテ。ローミーには鮫のナゲットが載っている(筆者撮影)

ホームステイしたご家族は仏教徒であり、仏教の「不殺生戒」を守るために菜食主義を貫いているように感じた。しかし彼らは無精卵を食べるため、それが動物性タンパク質となり栄養的には問題ないだろう。

リトルインディアのレストランにて。ベジタリアンのナシゴレンとドーサ。シンガポールのインド料理は基本的に南インド料理なので、北インド料理ばかりの日本に住んでいると新鮮に感じる(筆者撮影)
シンガポール、朝の定番セット。カヤトーストと半熟卵、コピC(エバミルクと砂糖入りコーヒー)

ここに載せた食べ物のうち、肉料理以外は菜食主義者の友人とシェアして食べた。味にはまったく大満足で、それが中国南部料理であるキャロットケーキ(あなたが考えるお菓子ではなくダイコン入り炒飯のこと)でも、マレー料理であるナシゴレンでも、インド南部料理であるドーサと各種カレーでも、「我慢」せずに満腹になれる。食べた印象は「ベジタリアンフードを食べた」ではなく「美味しい料理を食べた」だからだ。

さて、菜食主義が宗教の戒律ではなく哲学だとしたらどうだろうか?
これを読んでいるあなたに質問です。
もし、あなたが犬や猫などのペットを飼っているとして、あなたはそのペットを殴り殺せますか?
できる?ああそう。あなたはサイコパスですので、私に近寄らないでください。
「できない」と答えた多くの人たちは、なぜそれがあなたのペットにのみ適用され、見ず知らずの牛や豚や鶏には適用されないのでしょうか?
あなたが勝手に、他者の命に重さと軽さを設定するということは、あなたによる差別ということですよね?

「私は私である」というだけで、自分を他者より優越する理由にはならない。
自分を何より重要視するのはすべての生物の本能だが、人間だけがこの矛盾に気づくことができる。あなたのペットの犬や猫や、鳥や魚やアメーバはそのことに気づくこともなく自分が世界で一番偉いと思い込んでいる、というか、思い込まされている。

それで、あなたは人間ですか?との質問に「はい」と答えた人は、なぜあなたは人間なのにその矛盾に気づかないのか?ということになる。努力不足、勉強不足だからでしょう?

私はその事を思いながら、菜食主義者にはならないという矛盾を抱えて生きている。不完全な私は、別にそれでいい。私は矛盾を抱えて生きているからこそ、自分の信念・道徳・ルールを守り、矛盾を抱えないように生きている人たちを尊敬している。宗教的な言い方になってしまうが、彼らは「求道者」だ。そこから、他者に対する思いやりが見えてくるようだ。この人は他者に接するときの「原則」を持っていて、その原則に従って生きていると。それは簡単に言えば思いやり、宗教的に言えば慈悲の心だ。

私を含めた多くの人間は、原則に従って生きているだろうか?よく、会社が「今年のスローガン」というものを決めているが、果たして社員はそれに従って行動しているだろうか?あんなもの、単なる飾りでは?それくらい、原則に従って行動するということは難しい。

だから、私の中で自分が菜食主義者ではないことと、菜食主義者を尊敬することには矛盾がない。自分ができないことを実践している人を私は尊敬する。

ところが、世の中には自分が矛盾を抱えて生きている事にも気づかなければ、そのような「自分より哲学的・人格的・自分をコントロールするということに関して優れた人生を実践している人」を、バカするという大バカが大勢いるようだ。

あなたが菜食主義者ではないのは自由だし、菜食主義者も肉食者に関わらないでおくべきだ。肉屋を襲撃するような西洋の菜食主義者を私は嫌っている。そこに哲学は感じられないからだ。

Twitterとかいう、バカがクソくだらないことで人生の時間を浪費するだけのSNSがある。このゴミサービスに、イーロン・マスクは巨費を投じて買収したいと考えているのだからアイツも馬鹿だろう。
そのゴミ溜めのようなSNSでは、またぞろ菜食主義者を貶める発言があった。なぜなんだ?お前が菜食主義の根底にある哲学を知らないだけだろう?

仏教の「不殺生戒」について、その理由を説明できるだけ仏教について調べたことはあるのか?

ジェレミー・ベンサムは「功利主義」について、その道徳の及ぶ範囲を「それが苦しむことがあるか?」と定義し、菜食主義者はそれを、人間以外の動物にまで範囲を拡張して適用しているだけだということに気づいているのか?

アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)のように「全宇宙を創造した神は無限の宇宙に比べれば取るに足らないゴミのような星・地球の、多種多様な生物の一種類に過ぎない、サルの仲間である人間だけをなぜか特別に可愛がり、あとの全ての生物は人間は利用するだけ利用しても良いと考えている種差別主義者」である妄想は、そもそも神なんていないし、そいつが全宇宙の中で人間だけをかわいがっているのだとしたらとんでもない差別野郎で尊敬するにも値しないというかその神って人間には発音不可能で宇宙の深淵からやってくる、クトゥルー神話の「旧神」とかいうラーメン二郎みたいなやつなのではないか。

ナイアルラトホテップとラーメン二郎

「神が用意したステージで、人間だけが主人公でありその他の生物は全て<物言わぬ脇役>である」という幼稚な物語は、どうやら嘘であるというのは戦後、遺伝子の研究による理解が進み、どうやら人間とサルに大した違いはない、という「証拠」が出てしまったのだから、人間だけを特別視する根拠を失ったと考えるべきだろう。
更にその幼稚な物語は、人類が狩猟採集生活をやめて農耕生活に移行する段階で獲得した価値観であろうことも最近は少しずつ分かってきているのに、まだその頭の悪い古代人の妄想にしがみつくのか?

アブラハムの宗教の価値観、ひいては人類が農耕を始めたことで得た「自分を取り巻く環境の全ては単に利用されるためだけに存在する」という、尊大な、上から目線の価値観などまったく人類のエゴイズムであると分かってしまった。動物も人間も変わらないと「証拠」が出た一方、「地球という舞台で、人間こそ主人公である」という「証拠」は一切出てこないのだから、何をバカな古代人の妄想を今の今まで守っているのだ、という気がする。

このような利己的な考えをする連中は、道徳哲学について、研究者による一般読者向けの本を1冊でも読んだことがあるのか?

私がこの文章を書いているノートPCを買う金があれば、貧しい人に食事を提供することだってできただろう。しかし私はそれをせずにノートPCを買った。それは醜いエゴイズムではないのか?そうかもしれない。しかし私は文無しになるまで他人に施し続けていては自分の生活が立ち行かなくなるという事情がある。あるが、私はそれがエゴイズムであると認識して恥じることのできる人間でありたい。これが私をして肉食を止めないまま菜食主義者を尊敬する理由だ。

このように、菜食主義を理解するには東洋哲学(仏教)、西洋哲学(功利主義)、道徳哲学(“善意のポンプ”)の歴史的経緯と現状、更には近代西洋が「名誉の文化」から「威厳の文化」になったことにより、自分をコントロールすることの価値の向上したこと、そして「私」は特別ではないと証拠を突きつけた進化心理学のキャッチアップまでできていなければ理解できないだろう。

それができていないから、あなたは菜食主義者のことを矛盾しているだの、何だのといって批判しているのだ。「私はバカです」と言っているようなものであるにもかかわらず。

写真の蕎麦屋がベジタリアン向けメニューを出していないという証拠は?
人が食うモンにいちいち文句垂れてんじゃねえよ、アニメアイコンのカスが。

自分は肉食であると。なるほど、好きにすれば?
自分は菜食主義者であると。なるほど、好きにすれば?

なんでこんな当たり前のことで罵り合ってるの?

シンガポールのホーカーセンターでは、チキンライス屋台に並んでいる人たちは素食(ベジタリアンフード)の屋台に並んでいる人を罵っていなかったぞ?当たり前だろう。皆それぞれが食べたいものを注文して食べる。それだけだ。

あのアホ・ツイートの反応としていくつか散見されたコメントに「植物は生物じゃないんですか?」というものがあった。小学生並みの屁理屈だ。これで鬼の首を取ったようなツラをしているのだからお前はバカだって言っているんだよ!
いいか、哲学としての菜食主義は功利主義だ。最大多数の最大幸福だ。このようなことを授業で聞くと、またバカな生徒が「それじゃあ輪姦は最大多数の最大幸福ですね」とか言い出す。それも違う。加害者と被害者の気分を数字にすると、5人の加害者の気持ちが+1ずつ合計+5だったとしても、被害者が-100なら+5–100=-95になり、最大多数の最大幸福にはならない。

功利主義の「道徳が及ぶ範囲の定義」は「それが苦しむことがあるか?」だ。植物は苦しまない。本当は苦しんでいるのかもしれないが、少なくとも人間には、苦しんでいるようには見えない。だから食べる。当たり前だ。菜食主義者はべつに、餓死したいわけじゃない。自分を犠牲にして際限なく他者への献身を続けたら自分自身が死んでしまう。これが「善意のポンプにはなれない。しかし私はこれがエゴイズムであると恥じることができる人間でありたい」と思う気持ちだ。他者への慈しみについて「何も考えない」から「捨身(仏教用語。自分の身を虎に食べさせたというブッダの前世に関する逸話から)」までスペクトラムがあるが、そのどこに線を引くのかは本人が決めることであり、どこに線引きをすれば正解なのかは本人に任される。当たり前だ。正解など存在しないからだ。
だから「無精卵は食べる」から「動物性のものは一切摂らない」まで菜食主義といっても人それぞれだ。

こんな当たり前のことが理解できないんだろう?バカは恥かく前に黙ってろよ。それか一生アニメでも見てろ。お似合いだ、アニメ見る以外能無しが。

自分の顔写真も出せない、本名も出せないバカ共の言うことを聞く時間なんか1秒だって無いはずだ。

あー、チキンライスおいしい。おわり。

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Hiroki Kaneko
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Written by Hiroki Kaneko

自営業のソフトウェア技術者。Airbnb TOP5%ホスト。サイクリングと旅行が趣味。

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