ブッダの集中力―役立つ初期仏教法話9
Amazon Kindle Unlimitedに入ると、月額980円で沢山の本が読み放題になります。その殆どは個人が書いた同人誌のような、しょうもない本(disclaimer: であるように少なくとも私は感じる)なのですが、上座部仏教の僧侶であるアルボムッレ・スマナサーラ師の著書数十冊が読み放題なのは、無料期間中に一気に読み切って購読を打ち切るのだとしたら、タダで読み放題ですので、これはお得です。
大変な苦労をして書いた本ですから、もっと詳しい感想文を書くのが、読者として著者の苦労に報いる事だとは知っています。しかし、今回は私がKindleでの読書中にメモをした箇所と、自分が思ったことを書いただけの「メモ」ですので、これをもってこの本に価値がない、という判断をくださないようお願いします。この科学の発達した21世紀において、科学の、なんというか、オッカムの剃刀とか言うんですか?そういった試練に耐えて最後まで生き残るのは仏教なんじゃないかと思っています。
宗教の人たちはそのために、人間の「先天的な集中力」を悪用しています。ですから私は、仏教を宗教だとしたくありません。
№350 暗示を使う、世間の宗教
仏教は宗教ではなく科学だとしたら「ブッダこそこの世で唯一真理を発見した人だと<信じる>」としては駄目でしょう。科学だとしたら、<唯一真理を発見した>とする証拠を出せ、という事になる。そんな意味の事が別の本で書いてありましたが。あと「悟り」だとか「解脱」とかいう精神状態も第三者からは検証不可能です。
日本の何処かの宗教では、本山の建物をギリシャ神話風に設計したと言って喜んでいました。お布施で、立派な美しいものを立てて喜んでいるのですね。
№664 寄付は糞(ふん)、信者はうじ虫
いきなりの幸福の科学批判にワタクシ只今、大変興奮しております。
しかし、マニ車をいつもまわしていながらふだんの生活では喧嘩をしたり、いろいろ欲しいままに買い物をしたり、「ぶん殴ってやるぞ」などの暴言も言い(後略)
№855 儀式の「集中力」が生み出す本末転倒
チベット仏教におけるマニ車の屁理屈加減は、肉食って酒のんで結婚する日本の坊主と双璧を成す屁理屈だと感じていたので、これも清々しい。
宗教がすべてマインドコントロールですから、その教えを集めた聖典がマインドコントロールであるのは、当然です。しかし、その聖典を読んだ人が、一人でも戦争を始めたり、テロリストに育ったとするならば、やはりその中身に問題があるのです。なにか危険な考えに導くからくりが盛り込まれているということです。
危険な考えとはどういうことを言うのかと、聞かれたことがあります。「例えば十万人を殺そうと企んでいる人が居ます。最悪の人です。もし、私がその人を殺すと十万人の人が助かります。そうすれば、私は十万人の人の命を守ったことになり、人殺しの罪などないのではありませんか」という質問でした。
私はこのように答えました。「その人が十万人を殺すかどうかは仮定の話です。もし、『将来十万人を殺すだろうから』と考えて、あなたがその人を殺したのなら、あなたが一人の人間を殺したことだけは確かなことです。この人を生かしておいたら十万人の人が死ぬというのは、実際に十万人を殺すまでわからないことなのです」と。これが、仏教の考え方です。
№875 聖典もマインドコントロールのツール
キリスト教は名指しで批判するくせに、イスラム教批判になると持って回ったような言い回しになる著者(まあGoogleもイスラム教批判サイトの検索結果をサジェスチョンから消したりしてるからね)。そして有名な「トロッコ問題」の答えが出てしまった!
↓公平を期すため、仏教でも少数派集団を宗教を理由に迫害するような糞坊主が存在することを申し添えておきます:
ウィラトゥの武器はミャンマー民主化後に解禁されたSNSだ。彼は、殺人、性暴力、テロなどイスラム教徒の犯行だとする凶悪事件をフェイスブックに次々とポストし、イスラム教徒の経営する店での不買運動を扇動した。
また、「イスラム教徒は金に物を言わせて仏教徒女性を犯し、子供を産ませて我が国を『イスラム化』しようとしている」などと説法で語り、ユーチューブを使って拡散した。貧困層を中心に多くの人がこの過激な主張に心酔し、彼のホームページには2017年末の段階で26万5000万人のフォロワーがいたという(現在は削除)。
「26万5000万人」の誤字は無視するとして、日本最大級の出版社・講談社が提供するクーリエ・ジャポンのWebサイトが単なるWordPressである事も無視するとして、要はこの記事、中国政府を批判したかっただけなんじゃねえの?NewsWeek日本版みたいだな、という事も無視します。
スマナサーラ師は「仏教は安全。他の宗教は危ない」というような意味の事を言ったのに、これはどうしたことか?もし著者が上記の糞坊主を「彼が信じているのは本当の仏教ではない」と評価するのだとしたら、穏健派と呼ばれるイスラム教の聖職者がイスラム原理主義のテロリストを指して「彼らはイスラム教を知らない」と言って『トカゲの尻尾切り』をする事と一体なにが違うのか?
“しかし、その聖典を読んだ人が、一人でも戦争を始めたり、テロリストに育ったとするならば、やはりその中身に問題があるのです”は、「人を殺してもいないし、テロリストでもない、単なる偏狭な煽動者、自宗教、自民族主義者」であるウィラトゥに対しては適用されないのか?上座部仏教だろ、お前の仲間だ。
こう説明するのがより真実に近いと思う:「宗教には良い面もあるが、悪い面もある」。しかし殆どの宗教家は前者については認めるものの、後者については認めたがらない。
神々とは、善行為を行い、その結果、人間の次元より苦しみが少ない、楽しみが多い次元に生まれた生命のことです。その神々も善行為の力が尽きたところで亡くなります。また別なところに生まれ変わるのです。絶対的な神、不死なる神などはあり得ません。
№1523 瞑想法(5) 念神瞑想
仏教にも神はいた。しかし英語のGodで表現する一神教の神ではなく、何か仏教徒にしか分からない概念の「神」だった。「不死なる神」もあり得ないのだから、「楽しみが多い次元」などというものも無いでしょう。今のところは、神の存在証明と同じく、あるという証拠も、無いという証拠も、ない。証拠がない以上、それを前提にするのはおかしいし、その事からも仏教は宗教ではなく科学である、とする著者の主張はおかしい。
輪廻転生は仏教の根本教義である為、著者はどうしても否定するわけにはいかないのだ。
(前略)ここまでこころがたどりついたときの「集中力」は、文字通り「なんでもできるようになる」ほどです。三次元を超えてしまっているので、物質を自由自在にコントロールすることができます。その気になれば神通力を育てることができるようなこころの状態です。
* 神通力/こころの能力を向上させることでなし得る神業的なこと。
№1658 集中力は楽しいという真理
なんでこんなオカルトめいた事を書くのかね。しかし「神通力を育てることができるようなこころの状態」とあるので、そんな気分になっているだけなのか?しかし「物質を自由自在にコントロールすることができます」と書いてしまっているしなあ。超能力なんて無いよ。