プラテーロとわたし
ニートの友・NHK FM
ノーベル文学賞受賞のヒメネスによる詩集を今回初めて読んだ。幾つか訳があるようだが、今回は伊藤 武好、伊藤 百合子訳を手に取る。
私がこの「プラテーロとわたし」を初めて知ったのは、もう正確には覚えていないけど1990年代のNHK FMでの朗読を聞いてからだった。カセットテープという古代文明のテクノロジーに録音して、テープが擦り切れるまで聞いていたのだから、一度放送で聞いて感銘を受け、次に再放送する時は録音しようと思って新聞のテレビ・ラジオ番組表を見て気長に待っていたのだろうと思う。そのようにして自分の引きこもり時代にNHK FMが私に教えてくれたアーティストは、この朗読と、あとは1990年代に日本でリバイバルブームだったタンゴのアストル・ピアソラだった。
録音したテープをカセットデッキで聞いていると、その乾いたギターと朗読によって、行ったこともない南スペインの情景が浮かんでくるようだった。
朗読版との違い
はじめて本を読んで驚いたのは、この「プラテーロとわたし」と第された詩の本は、日本語翻訳で約300ページ、おそらく100篇以上もある長大な詩であったことだ。その詩からマリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコがギター曲にしたのが二十数篇、私が聞いた朗読版は全15篇であるから「プラテーロとわたし」が一体どのような話なのか、私は全く知らないも同然だった。
この盤は1988年の録音である。今聞くと「江守徹の声が若いな」と思ってしまう。四半世紀ぶりにこの録音に出会うまで、私にとって江守徹の朗読といえばNHKの「漢詩紀行」で、中国の、黄河だか長江だかの雄大な眺めの映像とともに漢詩を歌い上げる、その堂々とした朗読が記憶に残っていたため「あれ?こんなに声高かったかな?」と思ってしまう。漢詩紀行のCDも出ればよいのに…と調べたらDVD-BOX(この響きの懐かしさ!)3万円也、というものを見つけた。でも高いから買わない。
両者の訳を比べる
伊藤 武好、伊藤 百合子訳も良いが、朗読を前提としていないために少し冗長になってしまっており、詩のリズム的には少し劣る気がする。他方、朗読版も日本語としてはおかしな、直訳っぽい箇所が散見され…。
「憂愁」より
朗読版: 新しい愛が見る明るい夢のように…
→「アたらしいアいがみるアかるい」は少し不自然だ。これを「韻を踏んでいる」とは呼ばないだろうし、日本語として読んだときに意味がわからない。新しい愛ってなに?
理論社版: 初恋の結ぶ明るい夢のように
→ああ、そういう意味だったのか!おそらく原文のスペイン語を直訳すると「新しい愛が見る明るい夢」になるのだけど、それでは日本語として意味がわからないので意訳したものと思われる。
朗読版:それまで見えなかった、軽やかな一羽の白いチョウが舞出て、カキツバタの花から花へ…
→カキツバタって極東地域にしか自生していないようですが?スペインに生えているものなの?あと、別の詩で九官鳥がどうとか言っているのだけど、スペインに九官鳥っているの?どうも、誤訳のような気がして…これは理論社版も「九官鳥」になっていた。
理論社版:いままで見たこともない、軽やかな白い一羽のチョウが、アヤメからアヤメへと…
→アヤメが正しいのかもしれない
他には、朗読版ではプラテーロの主治医・ダルボンさんという人がいきなり出てくるのだけど理論社版を読むと、この人がどのような人なのかが書かれており、なるほどそうだったのか!と納得した。大柄な、歯の抜けた老人なのだけど、どうやら娘を早くに亡くしたらしいことが判明した:
それから、静かに、彼は古い墓地の方を、じいっとみつめる。
— — わたしの娘、いとしい小さな娘よ……
「ダルボン 」より
あとは、ジプシーは馬泥棒であると決めて掛かる主人公だとか、現代においては適切ではない詩などが出てくるが昔の詩なのでしょうがない。
不明点
この主人公— — 何もせずロバに乗って近所をぶらぶらしており、周囲の子どもたちからは「きちがい」と呼ばれている主人公なのだけど — —宗教的なのか、そうでないのかはよく分からなかった。
人々が、哀れな人々が、日曜日ごとに扉を外ざしてミサへ出かけた後、儀式のない愛を生きる陽気なスズメたちは…
「雀たち」より
こう聞くと、主人公は日曜日ごとに教会へ行かないわけで、キリスト教の信者ではないことが伺える。しかし最後にプラテーロが死んだ後、キリスト教というより汎神論とも呼ぶべき独自の宗教観を披露する。
お前のことを物語った、この本をお前に捧げよう。いまならお前も読めるようになったのだから
「モゲールの空にいるプラテーロ」より
動物も、死ぬと字が読めるようになる独自ルール…。何の宗教だソレ?
お前はやはり天国でも、モゲールの野で草をはんでいることだろう。なぜなら、私たちのモゲールの山野の魂は、お前の魂と一緒に天へ上ったに違いないのだから
「モゲールの空にいるプラテーロ」より
ちょっとまって。その天国とやらは、地上とは違うどこか別の場所ではなくて、「デジタルツイン」のような、地上の生き写しであり、生物以外にも山野にも魂があり、それが死ぬとか生きるとか関係なく「天へ上る」ことができるの?これ、何の宗教?キリスト教ではないよね?
これ、キリスト教文化圏の読者ならすんなり納得するのだろうか?
とはいえスペインへ行きたくなる詩だった
海外旅行など行けるのはいつの日になるのか…。日本からスペインは遠すぎるので、とりあえず東南アジアなど行きたいなあ、と思った。