私がホモ・デウスでハイライトした所(1)

Hiroki Kaneko
21 min readJun 23, 2019

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本書のKindleデスクトップアプリ版からは、コピーが出来なくなってしまい、引用が非常に面倒だ。なので、一度に記事を書かずに数回に分けたいと思う。

追記:自分で作ったハイライト部分はAmazonのWebサイトから参照・コピー可能だそうです。次からそうします。

第1章 人類が新たに取り組むべきこと

私たちは国に尽くすためにいるのではなく、国が私たちに尽くすためにあるのだ。当初、国家権力を制限するために構想された幸福追求に対する権利は、いつの間にか、幸福に対する権利に変わってしまった−−まるで、人間には幸せになる自然権があり、私たちに不満を抱かせるものは何であれ、私たちの基本的人権を侵害するから、国家が何らかの措置を講じるべきであるかのように。
位置№672

日本には幸福実現党という、中二病の妄想のような教義に基づく宗教が基盤の大衆煽動型政党がありまして…。オウム真理教の真理党もそうだったし公明党もそうだけど、宗教ベースの政党って何でポピュリズムの大衆煽動しかしないのかね?メインの顧客がその程度の脳ミソの方々だからでしょうけど。

第2章 人新世

近年、インド南部のナヤカの狩猟採集民が、牛を飼ったり、ニワトリを育てたり、チャノキを栽培したりするなど、農作業を一部採用した。すると、驚くまでもないが、彼らは動物に対して新しい態度を身につけ、家畜(と作物)に対しては、野生の生き物に対してとは非常に異なる見方をするようになった。
ナヤカの言語では、固有の性格を持った生き物は「マンサン」と呼ばれる。人類学者のダニー・ナヴェに詳しい調査を受けたナヤカの人々は、ゾウはみなマンサンだと述べた。「私たちは森に住んでいて、彼らも森に住んでいます。私たちはみなマンサンです……クマもシカもトラも。森の動物全員が」。家畜の牛は?「牛は違います。どこへ行くにも、連れていってやらなければなりません」。ニワトリは?「あれは数に入りません。マンサンではありません」。森の木は?「マンサンです。木は本当に長い間生きますから」。では、チャノキは?「ああ、あれは茶葉を売って、必要なものを店で買えるように育てています。だから、マンサンではありません」
位置№1873

やった!これこそが、人類が狩猟採集生活から農耕へ移行した事で、他の生物に対する意識が変化した証拠だ!文字のない13,000年前の人間の精神活動など永遠に分かるわけがないと思っていたから、これは世紀の大発見ではないのか?農耕以降の宗教…キリスト教も仏教もイスラム教も…動物という生き物を「人間と対等な存在」から「物言わぬ財産」に貶めた、農民の宗教だったのだ。そしてその動物を殺すための詭弁の事を永遠の真理だと言う。神は動物を、人間が利用できるように創造したという。思い上がるなよ、人間至上主義者で動物差別主義者の神め!というか、こんな、いかにも人間が考えましたという自分達にのみ都合の良い、底の浅い物語をなぜ大勢が信じているのか?こんなモン人間が書いたに決まってるじゃないか。何?聖書は神が書いた?だとしたら神は生物種差別主義者だ!

そして、民族集団や宗教的コミュニティどうしが衝突したときには、しばしば双方が相手の人間性を剝奪した。「他者」を人間より下等の獣として描くことが、彼らをそのように扱うことに向けての第一歩だった。こうして農場は新しい社会の原型となった。そこには、うぬぼれた主人や、搾取するのがふさわしい劣等人種、絶滅させる機が熟した野生動物、こうした役柄の割り当て全体に祝福を与える、天上の偉大な神がみな揃っていた。
位置№1888

ジャレド・ダイアモンド著「昨日までの世界」によると、パプアニューギニアの狩猟採集民は隣村の連中の事を「あいつら人間じゃないんだ(だから殺しても良い)」と言った。

第3章 人間の輝き

伝統的な一神教なら、サピエンスだけが不滅の魂を持っていると答える。肉体は衰え、やがて朽ちるが、魂は救済あるいは永遠の断罪に向かって旅を続け、楽園で永久に続く喜びを経験するか、あるいは地獄で未来永劫、悲惨な状態にとどまる。ブタやその他の動物は魂を持たないので、この壮大なドラマには参加しない。彼らはほんの数年生きるだけで、それから死んで無に帰する。したがって私たちは、儚いブタよりも人間の不滅の魂にはるかに多く気を遣うべきなのだ。
これは幼稚園で語られるおとぎ話ではなく、二十一世紀初頭の今も、何十億という人間と動物の生活を形作り続けている、はなはだ強力な神話だ。人間には不滅の霊があるが、動物はただの儚い肉体にすぎないという新年は、私たちの法律制度は政治制度や経済制度の大黒柱だ。この信念によって、たとえば、人間が食物のために動物を殺したり、さらにはたんなる楽しみのためにさえ殺したりしても、まったく差し支えない理由の説明がつく。
№1975

普段の生活の中で全く気にしていなかったが、こうして理路整然と書かれると実に幼稚な虚構で人間は生きていると感じる。

世界は自分を中心に回っている、と考えるのは幼稚な子供の妄想だ。上記の宗教とは一神教の事を言っているのだろうけど、ヒンドゥー教や仏教だって輪廻転生の考えの中で動物を「畜生道」という「人間が悪いことをすると落ちる地獄の一種」として描き、「動物は外部の刺激に反応することしか出来ないロボットのようなものである。人間もデフォルト設定ではそうなっているが、瞑想により反応から経験に意識を集中させることでそれを回避できる。これは人間にしかできない高等な技だ。だから人間は動物より偉い。来世は動物に生まれたくなかったらこの世で善行を積め」と脅す。人間が動物より優れている証拠も無ければ、善も悪も、人間の狭い社会だけで通用する、人間が作り出した観念、道徳心なのに、それをグローバルで通用する、宇宙の真理みたいに言われても私は信じない。それは真理でも自然法則でもなく、農耕民の価値観、13,000年前よりこっちの、比較的新しい「考え方の流行」に過ぎないからだ。万物は流転するなら、仏陀の見つけたと主張する「自然法則」も、また陳腐化する時が来るはずだ。
私は差別主義者ではない、と主張したいのなら、私は菜食主義者になった方が良いような気がしてきた。

犬、猫、その他ペットを飼ったことのある人に問いたいのですが、あいつら動物は、単なる「外部の刺激に反応することしか出来ないロボット」だと思いますか?私はとても、そうは思えない。動物が人間に似ているのか、人間が動物に似ているのか、とにかく両者を隔てる断絶など無いと感じている。ペットの犬を見ていて「この犬、”人間は紙幣という紙切れの為にあくせく働いたり、死んでも魂が残ると思ったり、バカじゃないのか”と思っているのだろうなあ」と考えたことはある。何せ種差別主義者の神は人間以外の天国というものを用意していないからなあ。白人専用のビーチみたいなものだ。そんなアパルトヘイト政策を作り出した神など敬う理由があるだろうか?神の死骸をリンゴの木の枝に吊るせ!

私たちの記憶や想像や思考は、どこか高い所にある非物質的な領域に存在したりはしないという。じつはそれらも、何十億というニューロンによって発せられる厖大な数の電気信号だ。したがって、記憶や想像や思考を考慮に入れるときにさえ、何十億というニューロンを通過して副腎や脚の筋肉の活動で終わる一連の電気化学的反応から、依然として逃れられないのだ。
位置№2188

戦死者の量子脳が11次元の膜宇宙を通ってグローバルストレージに保存されるという疑似科学が靖国神社だった筈では?

革命を起こすには、数だけでは絶対に足りない。革命はたいてい、一般大衆ではなく運動家の小さなネットワークによって始まる。もし革命を起こしたければ、「どれだけの数の人が私の考えを支持しているか?」と自問してはならない。その代わりに、「私の支持者のうちには、効果的に共同できる者がどれだけいるか?」と問うといい。
位置№2586

ルーマニアでチャウシェスク政権が倒れた際、後釜を担ったのは共産党の穏健派であり、以前と何も変わらなかった。突発的な革命だった為、組織が不十分だったのだ。これが組織化されたボリシェヴィキ達が起こしたロシア革命との差だった。知らなかった!これから革命を起こしたい皆様はご留意ください。

チンパンジーやオオカミやイルカといった大半の社会的な哺乳動物の間の社会的協力は、親密な付き合いに基づいている。チンパンジーは、よく知り合い、社会的ヒエラルキーを確立してからでないと、いっしょに狩りに出ることはない。だからチンパンジーは社会的交流や権力闘争に多くの時間を費やす。知らないチンパンジーどうしが出会うと、たいてい協力できず、金切り声を浴びせ合ったり、戦ったり、さっさと逃げたりする。
№2691

人間は見ず知らずのもの同士でも協力できる。それを可能にするものが宗教であり、通貨のような「お互いが信じている虚構」であると。

彼らは、反体制派はただちに厳罰に処すると脅す一方で、従順で辛抱強い人々にはあの世での永遠の報酬を約束するかもしれない。これこそまさに、古代のエジプトと一八世紀のプロイセンで起こったことであり、今でも相変わらず世界の数知れない国々で行なわれていることだ。
そのような脅しと約束は、安定した人間のヒエラルキーと大規模な協力のネットワークを生み出すのにしばしば成功する──人々が、そうしたヒエラルキーやネットワークは、人間のただの気まぐれな思いつきではなく、必然的な自然の摂理あるいは神の神聖な命令を反映していると信じているかぎりは。
№2771

アホが騙されてりゃ支配者は笑いが止まらないな。人間の気まぐれの思いつきで起こした戦争で私の祖父の弟も死んだという。しかし戦死した弟や、従軍してひどい目に遭った祖父も、こんな幼稚な虚構に命をかけていたと知っていただろうか?何か「美しい物語」でも信じていなければ、とても命などかけられないだろう。2019年を生きている私は、これらが虚構だと知ることが出来た。私はこの本が出版されるまで生きていたことに感謝している。

たいていの人は、現実は客観的なものか主観的なもののどちらかで、それ以外の可能性はないと思い込んでいる。だから何かが、たんに自分が主観的に感じているものではないと納得がいったときには、それは客観的なものであるに違いないという結論に飛びつく。多くの人が神の存在を信じていたり、お金が世の中を回していたり、国家主義が戦争を起こし、帝国を建設したりするなら、これらはたんに私が主観的に信じていることとは言えない。したがって、神とお金と国家は客観的現実に違いないというわけだ。
№2801

ところが、第三の現実のレベルがある。共同主観的レベルだ。共同主観的なものは、個々の人間が信じていることや感じていることによるのではなく、大勢の人の間のコミュニケーションに依存している。歴史におけるきわめて重要な因子の多くは、共同主観的なものだ。たとえば、お金には客観的な価値はない。一ドル札は食べることも飲むことも身につけることもできない。それにもかかわらず、何十億もの人がその価値を信じているかぎり、それを使って食べ物や飲み物や衣服を買うことができる。もしあるベーカリーの主人がドル札への信頼を突然失い、緑色をしたこの紙切れと引き換えに私にパンを渡すのを断ったとしても、たいしたことにはならない。何ブロックか先のスーパーマーケットに行けばいいから。ところが、スーパーのレジ係もこの紙切れを受け取ってくれず、市場の商人やショッピングセンターの販売員にまで拒まれたら、ドルは価値を失う。緑色の紙切れはもちろん存在し続けるだろうが、値打ちがなくなる。
№2806

新しい単語が出てきた:共同主観的現実。「私がこれを信じる理由は他の人もこれを信じているからだ」。前著「サピエンス全史」で、人類の発展は虚構を信じる事だという視点に立った著者が、その虚構を説明するために作った言葉だろうか。本書の重要なキーワードであり、第3章は本当に、ハイライトだらけになってしまった。

貨幣が共同主観的現実であることを受け容れるのは比較的易しい。たいていの人は、古代ギリシアの神々や邪悪な帝国や異国の文化の価値観が想像の中にしか存在しないことも喜んで認める。ところが、 自分たちの 神や 自分たちの 国や 自分たちの 価値観がただの虚構であることは受け容れたがらない。なぜなら、これらのものは、私たちの人生に意味を与えてくれるからだ。私たちは、自分の人生には何らかの客観的な意味があり、自分の犠牲が何か頭の中の物語以上のものにとって大切であると信じたがる。とはいえ、じつのところ、ほとんどの人の人生には、彼らが互いに語り合う物語のネットワークの中でしか意味がない。
№2834

海外旅行へ出ると、自分が日本社会のローカルルールに縛られていた事に気づき、それがバカバカしく感じるから、私は海外旅行で開放感を感じるのだと思う。しかし訪れた土地の人達もまた、その土地のローカルルールに縛られているのだ。ちょうど日本円が中国で通用しないように。

意味は、大勢の人が共通の物語のネットワークを織り上げたときに生み出される。教会で結婚式を挙げたり、ラマダーンに断食したり、選挙の日に投票したりといった、特定の行動は、なぜ有意義に思えるのか?それは、親もそれが有意義だと考えているし、兄弟や近所の人、近くの町の人々、さらには遠い異国の住人までそう考えているからだ。では、なぜこれらの人々はみな、それが有意義だと考えるのか?それは、彼らの友人や隣人たちも同じ見方をしているからだ。人々は絶えず互いの信念を強化しており、それが無限のループとなって果てしなく続く。互いに確認し合うごとに、意味のウェブは強固になり、他の誰もが信じていることを自分も信じる以外、ほとんど選択肢がなくなる。
№2840

これが「共同主観的現実」だと著者は言う。
このあとの、12世紀イングランドで十字軍に参加して異教徒と戦おうと宣言する若者と、21世紀にイングランドでアムネスティ・インターナショナルに参加しようとする若者のたとえ話は必見だと感じた。もし12世紀のイングランドで、イスラム教徒を助けようと思えば牧師から、こいつは頭がおかしいと思われたのに対し、21世紀のイングランドで異教徒と戦おうと宣言するなら、21世紀の牧師からは、こいつ頭がおかしいんじゃないかと思われるだろうと。

第4章 物語の語り手

もしタイムマシンを使って現代の科学者を古代エジプトに送り込んだら、彼女は地元の神官たちの虚構を暴いたり、農民たちに革命や相対性理論や量子物理学の講義を行ったりしても権力を掌握できないだろう。
(中略)彼女が、エネルギーを質量で割れば光速の二乗に等しいことを説明すれば、それらの農民を感動させ、行動を起こさられると、あなたは本気で思うだろうか?万一そう思っているとしたら、今日のアフガニスタンかシリアに出かけて、試しにやってみてはいかがだろう?
№3242

今この瞬間、異世界転生モノのラノベは死んだ!

だから古代のユダヤ人は、旱魃に苦しめられたり、バビロニア王ネブカドネザルがユダヤに攻め込み、人々を連れ去ったりしたときには、自分たちの罪に対する神の罰に違いないと考えた。(中略)聖書は、ひょっとしたらその旱魃がフィリピン諸島の火山爆発によって引き起こされた可能性や、ネブカドネザルがバビロニアの商業的利益を追い求めて攻め込んできた可能性、キュロス王が自らの政治的理由からユダヤ人に恩恵を施した可能性は認めない。したがって聖書は、グローバルな生態環境やバビロニアの経済やペルシアの政治制度を理解することには、いっさい関心を見せない。
そのような自己陶酔は、幼少期の人間全員に共通する特徴だ。どんな宗教や文化の中で育った子供も、自分が世界の中心だと考え、その結果、他の人々の境遇や心情に対しては心からの関心をほとんど示さない。
№3285

子供は世界を自分中心に回っていると考える、ゆえに聖書が子供の妄想じみている、という点には同意するけど、子供は他者に関心を示さない、という点は同意しかねる。私は今より子供の頃の方が、道端で寝ているホームレス状態の人々に心を痛めたものだ。そして自分さえ良ければ他人が苦しんでも良いと考える大人の社会を憎んだものだ。大人になると、大勢は社会の矛盾に対して諦める。

したがって、どんな人間のネットワークであれ、その歴史を詳しく調べるときには、ときどき立ち止まって、なにか現実のものの視点から物事を眺めてみるのが望ましい。では、あるものが現実のものかどうかは、どうすればわかるだろう?とても単純だ。「それが苦しむことがありうるか?」と自問しさえすればいい。人々がゼウスの神殿を焼き払っても、ゼウスは苦しまない。ユーロは価値が下がっても苦しまない。銀行は倒産しても苦しまない。国家は戦争に敗れても本当に苦しむことはない。苦しむと言ったとしても、それは比喩でしかない。それに対して、兵士は戦場で負傷したら、本当に苦しむ。飢えた農民は、食べ物が何もなければ苦しむ。雌牛は産んだばかりの子牛から引き離されれば苦しむ。それこそが現実だ。
№3362

現実と虚構を区別する方法が簡潔に述べられている、ここが本書のエッセンスだ。「それが苦しむことがありうるか?」

虚構は悪くない。不可欠だ。お金や国家や協力などについて、広く受け容れられている物語がなければ、複雑な人間社会は一つとして機能しえない。
(中略)だが、物語は道具にすぎない。だから、物語を目標や基準にするべきではない。私たちは物語がただの虚構であることを忘れたら、現実を見失ってしまう。すると、「企業に莫大な利益をもたらすため」、あるいは「国益を守るため」に戦争を始めてしまう。企業やお金や国家は私たちの想像の中にしか存在しない。私たちは、自分に役立てるためにそれらを創り出した。それなのになぜ、気がつくとそれらのために自分の人生を犠牲にしているのか?
№3369

これこそが、ユヴァル・ノア・ハラリの真髄!なんという叡智!なんという慧眼!ハラリここにありだ!これに比べたら、他の章は単なる注釈に過ぎない。

第5章 科学と宗教というおかしな夫婦

神は自ら助くるものを助く、とよく言われる。これは、神は存在しない、と遠回しに言っているわけだが、もし神を信じれば何かを自らやってみる気になるのなら、それは助けになる。抗生物質は神と違い、自らを助けないものさえも助ける。
№3400

ああ面白い。

(前略)とはいえ、宗教は神ではなく人間が創り出したもので、神の存在ではなく社会的な機能によって定義される。人間の法や規範や価値観に超人間的な正当性を与える網羅的な物語なら、そのどれもが宗教だ。
№3441

この宗教の定義は面白い。本書では、ゆえに共産主義もナチズムも自由主義も人間至上主義の宗教ということになっている。

宗教には、事実に関する言明を倫理的な判断に変え、深刻な混乱を生み、比較的単純な議論であってしかるべきだったものをわかりにくくする、根強い傾向がある。たとえば、「神が聖書を書いた」という事実に関する言明は、「あなたは神が聖書を書いたと信じるべきである」という倫理的な命令に変わってしまうことがあまりにも多い。事実に関するこの言明をたんに信じることが美徳となり、疑うことは恐ろしい罪となる。
№3712

これは注意深く考えないと、ほとんど人が引っかかってしまう罠なのでは。この後、3種類の「イスラム教とナチズムと自由主義者の親子の会話」が書かれているのだけど、引用はしないからぜひ読んでほしい。要は、それら宗教は「この世界とはそういうものであり、その規範を守らなければ恐ろしいことが起きる」というものだった。

未来の科学者たちが今はまだ知られていない地球の救出法を発見するだろうという前提に基づいて人類の将来を危険にさらすのは、どれほど道理に適っているだろう?世界を動かしている大統領や大臣やCEOは道理をしっかりわきまえた人々だ。それなのに、なぜ進んでそんな賭けをするのか?それは彼らが、自分個人の将来を賭けているわけではないと思っているからかも知れない。もし状況がいよいよ悪化し、科学者が大洪水を防げなくても、依然として技術者が、高いカーストにはハイテクのノアの箱船を造れるだろう。ただし、他の何十億もの人は取り残されて溺れる羽目になる。このハイテクの方舟信仰は今、人類と生態系全体の将来にとって大きな脅威の一つになっている。ハイテクの方舟で助かると信じている人々には、グローバルな生体環境を任せるべきではない。死んだ後に天国に行けると信じている人々に核兵器を与えるべきではないのと同じ理屈だ。
№4564

中国共産党指導部の連中は天国など信じていないので、核兵器を任せても安心ですね。というのは冗談ですが、気候変動に関する政治的議論がズレているとは感じています。

では、貧しい人はどうなのか?彼らはなぜ抗議していないのか?大洪水がもし本当に襲ってきたら、その損害は彼らがまともに被ることになる。とはいえ、経済が停滞したら真っ先に犠牲になるのも彼らだ。資本主義の世界では、貧しい人々の暮らしは経済が成長しているときにしか改善しない。したがって彼らは、今日の経済成長を減速させることによって将来の生体環境への脅威を減らす措置は、どんなものも支持しそうにない。環境を保護するというのはじつに素晴らしい考えだが、家賃が払えない人々は、氷床が溶けることよりも借金の方をよほど心配するものだ。
№4565

気候変動には証拠があり、この主張を覆す場合には、新たな証拠が必要になる。ゆえに「信じない」というトランプの主張は意味がないというか票田のアメリカの農民が気候変動で生産力が下がって、遅まきながら気候変動は本当であると気づいた時には手のひら返すんだろ?「ブレない」という生き方が素晴らしいと考える風潮が、今の日本にはあるように思えるけど、間違いを認めて方向転換することこそ「嘘を信じ続けて死ぬ」よりも勇気が必要で、誰にでもできるものではない。
気候変動という政治問題は、肯定派も否定派も、論点がずれていると感じる:

  1. 気候変動は事実起きており、証拠もたっぷりある。
  2. “科学者と技術者がいつも世界の破滅から私たちを救ってくれると信じている政治家と有権者が、あまりに多過ぎる。こと気候変動に関しては、成長の熱狂的な信者たちは、奇跡をただ期待するだけではない。奇跡は起こって当然と考えているのだ。”
  3. “未来の科学者たちが今はまだ知られていない地球の救出法を発見するだろうという前提に基づいて人類の将来を危険にさらすのは、どれほど道理に適っているのだろう?”

上記が政治問題としての気候変動の争点だろう。肯定派も否定派も、これを元に論じているだろうか?

旱魃や洪水になれば、貧しい人ほど被害を被ることになる。結果、難民が今まで以上に増えるだろう。メキシコとの国境に壁を作った所でどうにもならない程難民が押し寄せてくる。難民が嫌なのでしょう?自国に難民が来てほしくないのでしょう?ではなぜトランプ支持者は気候変動を否定するのか。「私は差別主義者だから気候変動に対し本当に危機感を覚えている」が、正しい差別主義者のあるべき姿だ。ではなぜそうしないのか?問題とその解決策が、一見すると繋がっていないように見えてしまい、直感的には理解できないからだ。
壁を作れば難民は入ってこない、というのは想像力の足りない奴が好みそうな理屈だ。2000年ほど前、万里の長城には、それなりの効果があった。北方の騎馬民族は、大軍を率いて遠征する際、食料として羊を連れて行ったという。高さ数メートルの壁は、人間なら梯子を使って簡単に超えられるが、羊には無理だった。つまり兵站を絶てば兵士たちは手持ちの干し肉ぐらいしか食料がなく、長城より南側、歩いて数日を超える遠征はできなかった。翻ってこんにち、羊を連れて壁を登ったり、リオ・グランデ川を渡ったりする亡命者などいるだろうか?
でもまあ、国境の壁、作ったらいいんじゃないですかね?ポピュリズムを戒めるモニュメントになりそうだ。

妊婦の死亡率に詳しい専門家の中でも、トンカチとくぎのことわざを理解している人には、貧しい母親の命を救うには何がいちばん有効化が見えている。それは看護師を訓練して帝王切開をすることでもなければ、出血多量や感染症に対応することでもない。妊婦の命を救うには、地元の病院への交通手段を整備することがいちばんだ。病院が合っても妊婦がそこにたどり着けなければ、何の役にも立たない。救急車もなく、救急車が通れる道路もなければ意味がない。それと同じで、いい教育に必要なものは、教科書をたくさん与えることでも教師を増やすことでもない。学びにいちばん大きく影響するのは、電気だ。電気があれば、日が暮れたあとに宿題ができる。
FACTFULNESS ハンス・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド著、 上杉周作、関美和訳

別の本だが引用しておく。
直感的には関係の無いように思える両者に物事の因果関係を見いだすことができるのは、少数の本当に頭の良い人間だ。それが理解できる凡人も、実は少ない。大勢は直感に従った結果、問題を見誤る。

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Hiroki Kaneko
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Written by Hiroki Kaneko

自営業のソフトウェア技術者。Airbnb TOP5%ホスト。サイクリングと旅行が趣味。

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