モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上・下)

Hiroki Kaneko
15 min readApr 29, 2019

--

Photo by Rishi Ragunathan on Unsplash

きっかけ(motivation)

これはちょっと読み始めるのが大変な本だ。まず上下巻、それぞれ3000円。上下巻で6000円を超える。大著ではあるものの、この値段。恐らく大量に売れないであろうという出版社の懐事情を鑑みた値付けであろうかと想像してしまう。そりゃベストセラーにはならないだろう。哲学だ。犬猫の写真とともに「人生はニャンとかなる!」みたいな、犬猫の写真につまらない言葉を添えて仕事に疲れたOLに買ってもらおうという本とか、ネットで大人気!などと言ってどこぞのブロガーの書いた記事を適当にまとめていっちょ上がり、著者のフォロワー200人ぐらいには売れるだろう、という出版社の存在意義を自ら否定する類の本ではないからだ。流し読みしたのでは理解できない。この本を理解するために、まず私はスーパーマーケットへ出向いてポストイットを買った。なにか気になる文があれば、戻ってもう一度読み返そうと思ったからだ。あと、この感想文を書くために。

私には哲学の素養が無い(というかそもそも教養が無い)。それっぽいものといえば、数年前に日本でもEテレで放送した「ハーバード白熱教室」だったかをYouTubeで見た。のを音声だけぶっこ抜いてiPhoneで30回ぐらい聞いた(全10回だったか12回だったか)。有名な「トロッコ問題」などの道徳ジレンマから始まって、大体カントの辺りで付いて行けなくなった。文字ではなく耳で聞くと定言命法などは、さっぱり頭に入ってこなかった。
その後は、もう少し現代の進化心理学に興味を持ち、今年に入ってからはジョナサン・ハイトの「社会はなぜ右と左にわかれるのか」を読んで、そしてこの本にたどり着いたのは、関連する商品を表示するという素晴らしいAmazonのレコメンドエンジンのおかげである。

私がこれらのような進化心理学、道徳哲学、に興味を持ったきっかけは2016年のイギリスのEU離脱であり、アメリカ大統領選挙だった。映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2」に出てくるビフのようなトランプが(実際モデルだったそうな)、「グレムリン2」に出てくる、ニューヨークの不動産業者・クランプのような(これも分かりやすいモデルだったけど日本在住の私は元ネタに気づくのに四半世紀掛かった)。イギリスとアメリカの有権者、頭大丈夫か?と偉そうな上から目線で思ったものだったけど、そのような態度を取ったところで人間の心理は理解できない。その辺りはハイト著「社会はなぜ右と左にわかれるのか」に説明があるが、グリーンは本書「モラル・トライブズ」の中でハイトの著作を取り上げ、そうではないと自説を展開する。なので、この界隈の話を理解したければ合計3冊の本を買わなければならない。約1万円の出費だが、私の頭の中での長年の疑問−−党派心に凝り固まった人間、差別的な人間の心理−−が理解できたような気がするので、この出費にまったく後悔はないどころか著者2人には感謝してもしきれない。上記のような心理を研究する分野が何なのか私は全く分からず、社会学?などと思っていたので、進化心理学という学問分野があることも知らなかった。文字のない時代の人間の精神活動など永遠に分かるはずもないと半ば諦めていたのが、1万年前の人類も現代の人類も遺伝子的には変わらないので、心理テストをするだけでおおよそ古代人の心理が想像できるというのは驚きだった。

宗教と道徳心

理解には、進化心理学が助けになるのではないかと思った。直接の関係はないがユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」は、現在の社会は虚構(fiction)の上に成り立っていると気づくきっかけになった。いや、お金が単なる紙切れであるのは分かっていたけど、大人になるとそのような哲学的思考に脳の無駄なエネルギーを割かなくなる。宗教にしても、神なんていない。いやこれは、ドーキンス著「神は妄想である」の言葉を借りれば、「神はいるという証拠もなければ、いないという証拠もない。しかし今までに分かっている事実を総合すると、ほとんどいないだろう」。
私も1000年前に生まれていたら神の存在を信じたかもしれないが、聖典だかに書かれている世界観というものが、どうも数千年前の中東地域の部族の道徳的価値観でしかなく、全宇宙を創造した神が、天の川銀河の端っこの、どうということもない太陽系の、どうということもない地球の、更に地球上の全生物のうちの、どうということもない1種類に過ぎない猿の親戚である人間の、更にレバント地方やらアラビア半島に住む部族のみ大のお気に入りである。ちなみに神はアメリカ大陸の存在は知らない(聖書に書かれていない)しユーラシア大陸の東の端っこの、そのまた海を越えた島国の人間などというものは歯牙にも掛けないというアホらしい言説を、なぜ私が信用しなければならないのかと感じている。

そのような、12000年前に農耕を始めて自然をコントロールできる、自然から切り離されたと感じた結果、自分が一番偉いと増長したアホな奴らが書いた本を「普遍的な真理」と呼ぶには程遠いな、と思っていた。私の体は「パンと葡萄酒」ではなく、ライスと日本酒でできているものですから。すみませんね、2000年前のイスラエルでは存在すら知られていなかった地域に住む部族出身なので、あなたの部族の道徳には共感できないんですよ。

そういった次第で、出アフリカした頃の現生人類と今の人類とでは、遺伝子的にどこも変わるところはないと言われても、人類を取り巻く社会環境が激変してしまった為に、部族社会の掟は、このグローバル化した社会に適応してくれない。人間の遺伝子が社会環境に適応するのに、また何百万年も待てないのだ。

もう、部族社会の頃の掟を国家社会に、国家間の国際社会に適用することはできない。しかし現在を生きる人類は、そのような「普遍的な道徳」が見つからないまま、部族主義者として生きているから、国家間の戦争も起きるし、自分とは違う部族が、自分とは異なる道徳原理に基づいて生きているのが許せない!となり、モスクで銃を乱射したりする。

オスのチンパンジーは、リスクがほとんどなく可能であれば、よその群れのオスを進んで殺す。
P.47

人間にこの行動をとらせるものは、信念でも政治思想でもなく、生まれた時から脳に標準装備で付いてきた、そのようなモジュールがそうさせるのだというのは、最近の本にはよく書かれていることだ。つまり人間は生物学的にはチンパンジーと大差ない癖に、武器といえば腕力ではなくアサルトライフルから、果ては核ミサイルまで持っているのが問題だ。人間はチンパンジーに対し、道徳的に堕落した殺人(猿)者として非難することはできない。チンパンジーよりたちが悪いのだ。

しかし人間には宗教や法律などで規定された道徳があり、そこが猿とは違う。世界のあまたの宗教も大同小異であり、その内容とは”黄金律(自分にしてほしいことを他人にもしなさい)を守れ”という。問題を起こす人間がいるとしたら、それは宗教や部族、国家の道徳を守らないからだと多くの人は思っているのではないか。しかし道徳を規定する筈の宗教が違うという理由から世界各地で紛争が起きているのは事実であり、そのような部族主義、時代が下って国民主義はグローバル化が否応なしに進む21世紀には対応できない。

ちなみに3つ目の世界宗教としての仏教の道徳に対する立ち位置は「人間はそのままでは自分の利益しか考えない利己的な存在である。そのため他者への愛を育み(人間以外の生物も含むため菜食主義を推奨)仏法僧に帰依し解脱を目指せ」という。確かに人間には利己的な一面もあるだろう。というか人間も含めた生物は生まれたときからデフォルト設定値が利己的になって生まれてくるのだ。子供への愛も、自分の遺伝子を広めるのが目的だからそうするのだ。

しかし人間のみ違う。人間は、集団の中での他者への思いやりがあるじゃないか、その道徳心こそが人間の特徴であるし、人間を他の動物を区別するところなのだ。それはそうなのだが、果たしてその「道徳心」とは一体何なのか。小学校で「道徳の時間」と称してわけのわからない物語など読まされた気がするが、あんなものが実生活の役に立ったと感じたことは今まで一度もない。

本書「モラル・トライブズ」や、「社会はなぜ右と左に分かれるのか」で示されているのは、そのような誇るべき人間の「文化」としての道徳心など、他者、他集団との競争を勝ち抜くために個人が自集団とうまく協調するために発達した心理モジュールに過ぎないという。「他集団との競争」とはすなわち、自集団が生き残るために他集団を(理由なく)皆殺しにするチンパンジーの事だ。これが「誇るべき人間の文化」だろうか?道徳心とは「食物を摂取しなければ腹が減る」と同じ本能でしかなかった。

何百年もの間、人間は数家族か最大でも150人程度の部族単位でしか暮らしてこなかったので、脳もその生活様式に適応するように進化してきた。しかし現代において、社会環境は激変した。部族社会は国家社会になり、その国家同士が相互に影響し合う国際社会になったのだが、人間の脳はといえば部族社会のままなので、自集団がまとまるためのローカルルール(宗教、国家など)を他部族に押し付けようとして、「お前の神は豚を食うな言うけど、俺らの神は牛を食うなという。一体どっちが正しいんだ?」と理解し合えなかった結果、教会やモスクやシナゴーグで銃乱射や爆発が起こる。毛の少ないチンパンジーの仕業だ。

では、現代の国際社会に人間の脳が適応するまで、あと何百万年掛かるのか?そんなには待てない。生物学的進化を待つ前に、人間は自らの「本能」を知恵によって乗り越える必要があるだろう。人間の素晴らしさとは進化を待たずとも社会構成を変えられる点であり猿山の雌猿は「ボスザルが常にオスなのはおかしい!万国の雌猿よ団結せよ!」と言って革命を起こさない(これの出典はサピエンス全史か?)。しかし人間はそれをできる。猿は遺伝子に書かれた事しかしない。そう書くと、まるで人間以外の動物がロボットのように感じてしまうが、それは間違いであり(そこは菜食主義者の指摘するところだ)、「自集団の困った個体を見かけたので助けてやった」がもし、愛とか道徳とかいう素晴らしい言葉で装飾せずに「脳というコンピューターに特定の状況のみを長時間の思考なしに素早く処理できる co-processorがCPUとは別に標準装備でついてきただけ」だとしたら?

それは自らの素晴らしい行いと呼べるだろうか?そうではない、誰でもできることなのだ。ここで仏教の「人間とは本来利己的で…」という前提は間違っていることになる。人間個人は利己的が故に自集団とは協調できるのだ。しかし集団対集団になるとco-processorが働かず、争ってしまう。自集団のローカルルールは絶対に正しく、他集団が間違っていると偏見の目で見てしまう。
人間の道徳心は個人対自集団との協調を促すために進化してきた。その目的とは、競争において他集団に(皆殺しにしてでも)勝つ事である
これが美しい道徳だろうか?皆が皆、自分が属する集団のローカルルールは正しいと信じている。数千年前の部族社会なら自集団の中だけで一生を終えていたから、問題は無かっただろう。しかし今は違う。異なる道徳基準を持つ、異なる集団ともうまくやっていかなければならないのだ。

党派心、差別に凝り固まった人間は、それが数百万年間、自集団の中のみで生き延びるために適応した人間本来の姿なのだ。彼らは、良くもないが、悪くもない。それがプログラムされた道徳心、本能だからだ。事実を集め、それが直感に反しているとしても信じることができる、論理的、科学的な思考ができる人間などほんの一握りしかおらず、それには教育が必要になる。ちなみに教育とは学校で教科書を読むことではなく、それができるようになるように自ら試行錯誤する事だと感じている。ようやくトランプ信者の心理が理解できてきた(やはりサルだという気持ちを新たにしただけだが)。

ではどうするのか?ハイトは「社会はなぜ右と左に分かれるのか」ではあまり回答を示さなかったように感じた。グリーンは「モラル・トライブズ」でハイトの説に異を唱える。ハイトは「社会はなぜ右と左に分かれるのか」において、道徳心を以下の6つに集約した:「ケア/危害」「自由/抑圧」「公正/欺瞞」「忠誠/背信」「権威/転覆」「神聖/堕落」。
政治的右派はこれらの道徳6つすべてに平等に重要視するのに対し、政治的左派はケア、つまり抑圧の犠牲者に対するケアのみを重要視する。もしくはケア、自由、公正を重要視し、忠誠、権威、神聖は重要視しない。これら道徳心を舌に存在する、味覚を判別する味蕾に例え、左派はケアを感じる味蕾しか無いというのだ。または「功利主義で知られるベンサムはアスペルガー症候群だったから感情を抜きにして『最大多数の最大幸福』を唱えられた」などを論じているのだが、正直言ってハイトに対するグリーンの批判は当たっていないと感じた。なぜハイトの言う事の背景を理解してやれないのか?お互いニューヨーク大学とハーバード大学というアメリカ東部の大学を拠点にしていて、研究分野が似通っているのだから学会で会ったことぐらいあるだろうに。あの本はユダヤ系アメリカ人であるハイト(ユダヤ系アメリカ人は政治的には民主党支持らしい。ネオコンとかは?と思うが…)からの、右派の心理を理解しようという精一杯の接近、涙ぐましい努力の結果なのだ。そこをグリーンは理解しなければならない。

計算できる幸福

否応なしに集団対集団が暮らしていかなければならない今日の国際社会において、グリーンは「深遠な功利主義」の利点を唱える。功利主義というと、なんとなく「最大多数の最大幸福」という言葉くらいは知っているし、「輪姦って最大多数の最大幸福じゃね?」みたいな屁理屈で否定されてしまっているが、宗教Aと宗教Bの信者同士がうまくやっていくには、どちらかの宗教を他者に強要することではなく、お互いが納得する方法で統治しなければならず、それは科学であるとしている。幸福とは何か?というと、それは経験の質であり、もし何かの基準で経験の質を定量化できるのであれば、輪姦は否定される。

輪姦における経験の質:
女 -100
男1 +20
男2 +20
男3 +20

60-100 = -40

Googleの検索エンジンがなぜ、検索ワードに近いウェブページを上位に表示できるかご存知だろうか。Googleはウェブページ中の文章を単語に分け(分かち書き出来ない日本語などは形態素解析して品詞で分類する)、そこに出現した単語の数で重みをつける。「動物」で検索した時に、ウェブページAの中に「動物」という単語が3回出現したので重みは3、ウェブページBでは「動物」という単語が2回出現したら重みは2の時、Aの方がBより検索結果では上位に表示される。本当はもっと複雑なのだが、原理はこんなところだ。
コンピューターとは何かご存知だろうか。日本語で書けばそれは”電子計算機”であり、あいつらは計算しかできない。SiriやOK Googleなどで人間の質問に答えているような気はするが、内部で行っていることは計算である。
もし、脳内物質の分泌量などで経験の質を定量化する方法が存在し、それに多数の人間が納得するのであれば、極端な話、弁護士も裁判所も政治家も要らない。コンピューターが経験の質を計算して、数値の多い案を採用すれば良いからだ。その方が良い。その方が、毛の少ないチンパンジー共に任せるよりは…。

--

--

Hiroki Kaneko
Hiroki Kaneko

Written by Hiroki Kaneko

自営業のソフトウェア技術者。Airbnb TOP5%ホスト。サイクリングと旅行が趣味。

No responses yet