不登校者のための人生サバイバル・キット(教養編 4時間目 経済学2)
父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。(ヤニス・バルファキス著)
日本語版はひどい題名と表紙なので、著者に同情する。本を売るために出版社のアホが考えた苦肉の策だ。内容はひどいどころか素晴らしい。今の社会、カネから離れては生きてゆけないので、カネがどのようなものなのか、経済の仕組み、といったものを理解することは必須だからだ。株式の話もあればよかったかな、と思う。著者、バルファキスの経済に対する考え方は結構マルクス主義っぽいので(ギリシャ経済って旧東欧の影響を受けているのか?)、反共産主義、資本主義バンザイのユダヤ商人であるハラリとはぜんぜん違う。そこが、色々な視点を手に入れるために違う考えに触れるのは良いと思う。では、一緒に読んでいこう。
第1章 なぜ、こんなに「格差」があるのか?
「一緒に読んでいこう」と言ったが、この章全体がジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の受け売りなので、あの本を読んだことがあるなら読み飛ばしても構わない。この本はオーストラリアに留学した娘への手紙、という体で書かれているため、「なぜイギリス人がオーストラリアを支配したのか?アボリジニがイギリス人を支配するような、逆の展開は在り得なかったのか?」という問いを発する。そしてそれはオーストラリアは地理的に隔絶されている為、また人間が利用できる動植物が限られていた為にユーラシア大陸より貧しい生活をせざるを得なかったという。
それにしても、なぜ著者やビッグイシューは「格差」を問題視するのだろうか?注目すべきは「貧困問題の解決」ではないのか?
「金持ちは羨ましいから死ね!」という嫉妬なら誰にでもあるが、じゃあ金持ちが死んだとして何か社会が良くなるのか?そうではないだろう。上が天井知らずだったとしても、下が底上げされれば「貧困問題」は解消されるはずだ。「下からぶんどらなきゃ上はあり得ず、上からぶんどれば下は豊かになる」という考えは、富はゼロサムゲームであるという勘違いが根本にある。金持ちと貧乏の所得格差が開きながらも、全体の底上げさえされれば貧困問題は解決可能だ。そしてこの四半世紀、それは起こった。10億人が貧困層から脱出した。それは「貧乏人が金持ちから富をぶんどった」からだろうか?そうではない。金持ちは更に金持ちになり、貧乏人は貧困層から脱出した。これは、切り分けて奪い合う筈のパイ自体が大きくなったからだと考えなければ説明がつかない。
人間が狩猟採集生活で生きていた時は、生きる資源とは食べ物というモノでしかなく、それを奪い合うゼロサムゲームで生きていくしかなかったが、人間はいつしか貨幣を発明し、それを「何もないところから、魔法のようにパッと出す」中央銀行によって「富は無から作り出す」ことが可能になった。これは「隣人の食料を奪い取る」ことではない。アメリカ・カリフォルニア州マウンテンビューのGoogle本社ビルの地下には、汲めども尽きぬ油田でもあるのだろうか?そうではない。富の源泉は各社員の頭の中にあり、武力でマウンテンビューを占領してもその富は奪えない(イラクがクウェートに侵攻して油田を奪うような時代ではないのだ)。そしてその「頭の中の富」を元手に資金調達を銀行に申し入れたら、銀行は現金を「何もないところから、魔法のようにパッと出す」。無から有を生むような行為は、これは誰かの富を奪い取った結果だろうか?
そういった次第で、格差と貧困問題は(一部重複する部分もあるが大部分は)分けて考えるべきなのだ。「一握りの金持ちが世界の富の大部分を独占しているために貧困層は貧しい生活を強いられている」という世界観は、まあ「左翼大統一理論」とでも呼ぶべき考え方なのだけど、その「一握りの金持ち」だって入れ代わり立ち代わりしている。30年前の「フォーブス500リスト」に入った企業は、今は何社残ってる?10年前のビジネス書を読めば、やれマイクロソフトがすごいだの、インテルがすごいだの散々書かれているけど、この2社はスマートフォン時代には付いてこれなかった。ビジネス環境が変わり続けている中で、あとは落ち目になるだけだ。昔も今も大金持ち、みたいな人間はいないのだけど、何か「一握りの金持ち(略)」という言葉からは、今も昔も変わらず同じ人間が世界を支配している、という陰謀論のような匂いがするが、これは事実ではない。
私は別に金持ちを擁護しているわけではない(むしろ嫉妬している)。しかし貧困問題を解決しようとして、格差ばかりに目がいってしまっては問題は解決しないのでは、と思っている。それは本質的な原因ではないのだ。
金持ちは大いに栄えてもらって結構、その代わりに貧乏人にも衣食住、医療、教育の提供がセットになっていることが条件だと思う。
第2章 「市場社会」の誕生
大航海時代以降、グローバル貿易の繁栄を見たイギリス貴族(地方地主のこと)たちは「おいおい、もう玉ねぎなんて作ってる場合じゃねえよ。今すぐ羊を飼って羊毛を輸出するぞ」と言い出して農奴を追い出してしまった。
著者の主張では、それまでも貨幣は存在していたが、それ以外の名誉だとか名声だとかも重要視しており、それは金では買えないものだと思われていた。これを「市場のある社会」と呼ぶ。しかし産業革命以降はすべてのものに交換価値が出てきたことで、「市場のある社会」が「市場社会」になったという。「自分の値段」とはつまり、自分のスキルがどれほどの市場でのカネとの交換価値を持つものなのか?という基準で測る。そのため、多くの人は大学の学位、資格、次に繋がりそうなキャリア、などを必死で手に入れて「市場における自分のカネとの交換価値」を上げようとしているようだ。
昔の貴族は、代々伝わる土地を手放そうとはしなかった。しかし市場社会以降なら、土地の資産価値が上がったなら手放すかもしれない。それは「利益の追求」であり、借金というものに新たな役割ができたからだという。
第3章 「利益」と「借金」のウエディングマーチ
貴族と違い、生来の有利な環境が自分自身に無い商人たちは、市場での競争に勝つために、事業を始める前にまず借金をする必要があった。そして市場で最も低い価格を提示できたものが、最も多くの顧客を獲得できる。コストを下げるには従業員の給料を下げたり、効率の良い新技術への投資が欠かせない。そして借金で設備や研究費を捻出し、それが利益になっていったことで伝統的宗教で「借金は悪」だと思われていたのが、どうもそうでもないのでは、と意識の変化があった。16世紀に書かれたマーロウの戯曲で、フォースタス博士は悪魔を呼び出し、現世利益と引き換えに悪魔に魂を売る。そして24年後に悪魔メフィストフェレスは「利子」としてフォースタス博士の魂を地獄へ連れてゆく。
19世紀に書かれたゲーテの「ファウスト」の話も同じだが、ファウストは自分の人生の過ちに気づき、悔い改めることで死後は天国へ行ったと。ここでファウストは「救済(redemption)」されたが、借金の償還もredemptionという。19世紀、既に社会通念は「借金=悪」ではなくなっていた。ここで著者はもう一つの物語を出してくる。ディケンズの「クリスマス・キャロル」だ。スクルージは高利貸しで財を成したが、周囲の人間が自分の死を喜んでいるという未来の予言を見せられたために、残りの人生は他人のために財産を使おうと誓う。
さて、24年ローンで人生を謳歌したファウストと、溜め込んだカネを金庫にしまい込むだけだったスクルージ、市場社会のニーズに合っていたのはどちらか?*1
この記事はここまで。ここでハラリの「サピエンス全史」の話もしておくと、産業革命以前までにおいて、市場規模が全く動かなかったのは、貴族が溜め込んだカネを使わずにおいたからであり、その利益を新たな研究開発やら工場を作ることに投資していれば、富の総量も増えただろうに、当時の貴族はそのような事は全く考えていなかった、とある。
*1 ここで「ファウストの方が人生を謳歌した」と言いたいところだが、人間には収集癖というものがあり、スクルージがゴミ屋敷レベルの病的な「お金収集癖」を持つ人間であった場合、使わずとも貯まるだけで喜びを感じ、結果として人生を謳歌していたのかもしれない。