個人的なラジオと客観的なテレビ、個人的なSNSと客観的な**?/人類とイノベーション/マット・リドレー著
まだ読み切っていないのだけど非常に気になる事が書かれていたので、忘れないうちに書き留めておく。
ナチス=ドイツ国内だけでなく、オーストリア人とズデーテン地方のドイツ人にも影響及ぼすために、ラジオを大々的に利用した。特に、より多くの人が手に入れられる安価なラジオ受信機として、価格が76ライヒスマルクのフォルクスエンファンガ(国民のラジオ)を開発した。「全ドイツ人が相当の話を国民のラジオで聞いている)と1936年の宣伝ポスターが自慢している。
(中略)
イギリスファシスト同盟のオズワルド・モズリーは端を介して、ドイツの放送をイギリスで流すためにヒトラーの支援を得ようとした。民主主義国家でも、例えばチャールズ・カフリンクリン・ルーズベルトは自分の政策を売り込むために、ラジオを使っており、社会の2極化に対するラジオの影響は甚大だった。これは最近ソーシャルメディアで起こっていることを思わせる。1934年にマルコーニは「私は世界にとって良いことをしたのか、それとも脅威を与えたのか?」と問いかけている。その5年前、ムッソリーニがマルコーニを侯爵に叙していた。
正確な理由はよくわからないが、テレビ放送網はラジオと逆の 効果をおよぼし、人々2極化させるのではなく、社会的合意に引き戻しており、それが息苦しいことさえある。
この転換を端的に示す瞬間があったとしたらそれは1954年4月アメリカ国民がテレビで初めてジョー・マッカーシー上院議員を見た時だ。国民は目にしたものが気に入らず、マッカーシーのバブルはすぐに弾けた。「アメリカ国民は6週にわたってあなたを見てきた。あなたには誰も騙されない」と直後にスチュアート・サイミントン上院議員が述べている。私が思うに、この求心効果はソーシャルメディアの登場で逆転し、以前のラジオと同じような2極化の力が働いている。
第6章 通信とコンピュータのイノベーション
本当にそうだろうか?もし戦前にテレビがあったら、ナチ党はそれを利用するだけだったのではないか?テレビが普及したのはもっとあとの時代になってからなので、これを確かめることは出来ない。
しかしラジオと言うのは聴取者にとって非常に個人的なメディアであるように感じる。まるで自分に対して語りかけられているような感覚は、テレビの政見放送にはないものだ。もしヒトラーが政見放送で 自分の考えをわめき散らしても ラジオのような効果は期待できないのかもしれない。テレビの視聴者と テレビの演者との間には 何か埋めがたい距離のようなものを感じるから、かもしれない。
フィルターバブルとCATVが世界中の政治的2極化の原因であることに疑いはない。左寄りの人は左に動き、右寄りの人が右に動き、ロシアなどでは悪意ある政府の力がその流れを後押しする。
(中略)
パリサーが予測したように、「パーソナライゼーションのフィルターは目に見えない自動プロパガンダ装置のようなものだ。これを放任すると、我々は自らの考えで自分を洗脳し、なじみのあるものばかりを欲しがるようになる。暗い道の領域に潜む危険なことなど忘れてしまう(井口訳)」。イノベーションはしばしば世界を意外な方向に導く。同じ事は前にもあった。印刷の発明は西洋社会に政治的・社会的大変動を引き起こし、それが社会を2極化し、多くの人々を死なせた。その原因は主に、キリストの体は聖餐式に文字通りあるのか、それとも比喩的にあるのか、そしてローマ教皇は不可謬であるかどうかについての争いだった。
SNSは テレビ的か、ラジオ的か?と考えると、ラジオ的つまり 見ている人に直接、1対1で語り掛けているような気になるため、ラジオ的であると言える。
この先インターネット上にテレビのような客観的なメディアは出てくるのだろうか? 出てくるとしたらそれはどのようなものになるのか非常に興味があると思った。