引きこもりの皆様へ:絶対に何があっても親を殺さないでください
戦慄した
全国数十万人の引きこもり諸兄は戦慄してこのニュースを読んだことと思う。少なくとも元引きこもりの私は戦慄した。この記事の男は、自身の不甲斐なさを棚に上げて、自分の味方、味方中の味方である家族すなわち姉と母親を「自分の敵」であると誤認識して、殺したのだ。
いきなりここに結論を書いて終わりにすることもできるのだけど、まず最初に結論から書く。全国数十万人の引きこもり諸兄は、状況的・生物学的に必ず味方であることが誰の目にも分かりきった自分の家族を、殺さないでいただきたい。家族からは何を言われても「この野郎、殺してやる」などとは思わないでいただきたい。たとえ悪口であっても、罵倒であっても、自分に対して言われたことに腹を立てるのは、おかしい。お前がそうやって働きもせず、住む場所があって、食べるものがあってぬくぬくと暮らしていけるのは、一体誰のおかげだというのか?なぜお前のようなクズ野郎を養わなければならないのか?それだけでもう、誰が味方なのかは明らかだ。家族の絆というのは、損得勘定の外にあるからだ。もし、家族が味方でなかったら、この世界に誰がお前の味方をするというのか?いないんだよ!特に親兄弟を殺してしまった後では。
懲役30年だと。これで老齢になるまで住む場所と食べるものは確保できたわけだ。ところが自由などない。今までお前に自由はあったのだが、自らそれを放棄し続けていた。今度は本当に自由はなくなる。刑務所の作業中に「用便願いまーす!」とかいう謎の「業界用語」を言って、看守に対して手を挙げなければ排泄もできない。なぜ自分がそのような結果になったのか、当人がその原因を理解しているのだろうか?おそらく、理解していない。「俺を侮辱したから殺したんだ」程度の認識だろうと想像する。そうではない、なぜ「侮辱された」と誤認識したのか、そこが分からなければ被告の認識は「この謎だらけの人間が住む世界はよくわからん」で一生が終わってしまう。それは本人にとっても周囲の人間にとっても不幸になるだけだ。この記事では下の方に、被告が殺害に至った経緯を、自分なりに想像しようと試みた。恐らく「当たらずも遠からず」といったところで、少なくともこの裁判長よりは被告の考えに迫れたと思っている。
さて、そろそろ時間なので傍聴席へ移動しよう。
バーチャル傍聴席にて
母と姉については、昔から小ばかにされ、否定されたと話し「連携して神経を削ってきた」と千葉地裁の法廷で振り返った。
神経というのは削りも加えもしない。まずその用語も間違っているし、結果として小馬鹿にしたことは間違っていなかったじゃないか。
検察官に「言いがかりではないか」と疑問を呈されると「ネガティブな削りをされてきた」と反論した。
「削り」って何だ?鉛筆じゃあるまいし。裁判の場なので抽象的な表現は止めなさい。それに、連用形を名詞のように使うな(例:”学び”があった)。これが「勉強ができる(後述)」奴の語彙なのか?日本語0点。
実家に戻ってからは、「嫌みが多くて苦手」な母と、「空気のような存在」の父と、祖母との4人で暮らした。
お前のその発達障害っぽい性格は十中八九、その「空気のような存在の父」の遺伝だ。私の父もそんな感じだ。だからといって、父親を殺すか?父親は生まれる前に「発達障害っぽい脳ミソで生まれたいです」と、雲の上に住む白いひげの老人に頼んだのか?つまりこれは父の責任でもない。どのように生まれようと、人間は「配られたカードで勝負するしかない」のではないか?そのカードで勝負したのか?ワンペアしかなくても、オープンするしかないだろう。お前は自分の手がショボいからといって、怖がってオープンすらしなかった。自分の弱さをさらけ出すというのは、人を殺すよりも勇気が必要なことだ。
男は、自分の引きこもり生活についてどう考えていたのだろうか。「17歳以降つらかった。落ち着いてきて『ずっと引きこもりでまあいいか』と思い始めた。安定した低空飛行だった」と振り返る。「さえないけどそれでいいかなと思っていた」。
親もいつか死ぬのだから、その生活が永遠に続くわけがない。「さえない」どころではない。「低空飛行生活を、少なくとも親が死ぬまでは続けたい」と望むなら、一番やってはならない事をお前はやったわけだ。
「ぷつっと切れた」。姉をハンマーで殴った。姉は救急搬送されたが、両親は警察に通報せず、刑事処分を免れた。以降の人生は頭も体もずっと重く「消化試合みたいな感じ」だった。
アンガーマネジメント。こいつを3年ぐらい寺にぶち込んでやればよかった。「消化試合」?急に、人生の残り日数を全部消化されてしまった姉と母はどうなんだ?ふざけたことを抜かしてるんじゃねえ。
自分の中でいったんは落ち着いたかにみえた「低空飛行」だったが、20年5月に耳にした三つの言葉で“墜落”が決定的となる。自室から1階に飲み物を取りに行った時のことだ。年に1、2回帰省する姉と、母との会話が耳に届いた。「何もしない、優柔不断、勇気がない」
姉の婚約者に対してか、父にか、それとも自分にか…誰に向けた言葉かは分からないが、関係なかった。男は自分に矛先が向いていると感じた。
図星じゃねえか。
「流れ弾に見せかけた狙撃」と思い込み、
意味不明。わけのわからない抽象表現はやめろ。「姉の言葉は自分に向けた悪口だと思ったので、腹が立ち、殺した」だろう?
犯行当日の20年12月31日、夕方に目覚め、姉が帰省していることに気付いた。午後8時半ごろ、父がトイレに立ったタイミングでリビングに行き、「メイン(ターゲット)」だった姉を殺害し、母も殺害。その後、近くの河原で首などを切りつけて自殺を図ったが死ねず、近くの交番に出頭した。「恨むところまでは普通。殺すのは『ないよな』とは思ってる。でも、自分が死ぬならセットでありかな」
「ない」とか「あり」とか、こいつの語彙の少なさにも腹が立つ。意味不明。下にある被告評「勉強ができる」は、怪しいものだ。「勉強ができる」人間は、こんなに語彙が少ないのか?
証人として出廷した妹は男を「優しい」と言い、「母は兄を『勉強ができる』『機械が得意』と褒めていた」と明かした。
兄弟の一人が、ある日突然、自分の兄弟が、家族2人を殺して、妹はその後どうやって生きればよいのか?一生この出来事を引きずって生きていかなければならないのだけど、そんな事を、この男は考えたことがあるのか?自分のことしか考えないカスが。あと「日がな一日インターネットで動画を見る」技能は「機械が得意」の内には入らないからな。
「生きづらくても傷ついても、命を奪う理由にはならない。命の尊さが理解できていないのでしょうか」とまず問い掛け、こう続けた。「父や母、その先にも両親がいて、先祖はどこまでも続く。途切れることなく命のバトンをつないできた。1人でも命をつなぐことに失敗したらあなたはいない」
裁判長!異議あり!「命のバトン」とか、小学校の道徳の時間みたいな薄ら寒いお説教なぞ、どうでもいいです!そのバトン、渡してくれって頼んだわけじゃないし!人間の生に意味なんかないです!命をつなぐことは、素晴らしいことでも何でもないって生命の起源が自己複製のリボザイムがどうとかっていうところで気づきませんでした!?意味がない人生は空虚だと思いこんでいるのでしょうか!?自分を心配してくれる周囲の人がいるのなら、その人のために生きることが唯一意味らしい意味だった筈なのに、それを全く理解しなかったのが被告人でしょう!アンガーマネジメントが子供の頃からできていなかったのが全ての元凶です!こんな奴、ベーリング海のカニ漁船にブチ込みましょう!ノースウェスタン号のシグと新人イビリが大好きな彼の兄弟なら、こいつの性根を叩き直してくれるはずです!歯向かってきたら事故に見せかけて極寒の海に突き落としてカニの餌にしてもいいですよ!戸塚ヨットスクールイズム!故・石原慎太郎都知事閣下ご推薦!アイツ死んでよかった。
審理した裁判官や裁判員の思いは届いたのか。男は表情を変えることなく、法廷を後にした。
ほら、そんな的外れのお説教、本人には全然響いてないじゃないか。当たり前だ。司法試験に合格して、裁判長にまでなった人間に、挫折しかなかった人間の半生なぞ想像できるわけがない。おおかた「こんな社会のカスどもと関わらなければならないなんて疲れる仕事だ」とでも思っているのだろう。
裁判長より私のほうがこの事件を理解できる
私は想像できる!彼と私は同類だからだ。殺された姉による被告人評「何もしない、優柔不断、勇気がない」は、図星だからこそ彼は殺意を覚えた。的はずれな批判なら、聞き流していただろう。彼が「何もしない」のは「優柔不断」だからであり、優柔不断な理由は「勇気がない」からだ。勇気がないのは自分に自信がないからであり、自信がないのは外部の出来事にショックを受けやすい性格であり、その性格なのは生まれつき、父親からの遺伝だ。これが製造業において製造プロセス上の問題を原因究明するための「6次のなぜ」を彼の問題に適用した結果だ。おそらく、当たらずも遠からず、といったところだろうと思う。ここまでの洞察を、記憶力が良くて六法全書を暗記したから弁護士になれました、の裁判長様は、思いつくかな?少なくとも「命のバトン」とかいう「小学校4年生の道徳の時間」よりも、被告人の心を動かすのではないかと思う。被告人が殺人を犯したのは、「命の重さ」を知らないからではない!怒りのコントロールができないからだ。怒りのコントロールができないのは、彼がたまたまそのような性格に生まれついたからであり、彼の責任ではない。怒りをコントロールできるよう努力せよ、という意見はもっともだが、生まれつきあまり怒らない性格で、そのような努力をせずとも人生の道を踏み外す可能性の極めて少ない人間がいる一方で、「社会生活を営むのに不利な性格をもって生まれてきた人間」への理解があまりにも少ないように思う。当たり前だが、これは本人の責任ではない。もしかしたら原始時代においては、「俺をナメるとただではおかんぞ」という周囲への威嚇が、村同士の戦争を回避するのに有効な性格だったのかもしれない。そのために「キレる」という性質が現代まで保存されたのだろう。定温動物である恐竜は、気候変動によって絶滅した。それは恐竜の努力が足りなかったからだろうか?「頑張って変温動物になれたものを、努力しなかったのだから絶滅に関しては恐竜が悪い。怠慢である」などと言う人間がいたら、頭がおかしい。生まれながらの性質というのは変えられず、そこに本人の責任というものはない。生まれ持った性質が、本人が生きている環境上で有利に働くか、不利に働くかなど、その時の運でしかない。運が良かった — たまたま生まれ持った性質が、本人が生きる環境上で有利に働いた — ものは生き残り、そうではない不運なものが死んだ。生物はそうやって40億年やってきたのだ。そこに「本人の努力不足」という要素は存在しない。
ここで殺人を「過失責任」と言っては本人に「故意」があった為に通らないだろうが、自分ではどうしようもない原因で、自分も周囲も不幸になった場合、その「過失」でも「故意」でもない、何か、救済がないものかと考えてしまう。
「運が悪かったね。死ねば?」と、そのような非情な態度で生物は40億年もやってきたのだが、この生物の長い歴史の中で人間だけは、もう少しうまくやれないのだろうか?他者に対して思いやりをかけられないのだろうか?と気づいてそれを改善できる能力をもった初めての生物だというのに。
このような、本人も周囲も不幸になるだけの事件を予防するためには?事件が起きる前に対策しなければならない。そして、原因を誤認していては、対策もおのずと見当違いになるだけだ。その事に関しては、エリート裁判長様よりも私のほうが「同類」として遥かに深い理解ができる。裁判長様は「命の重さについて」歯の浮くようなお説教をしただけだ。そうじゃねえんだよ、私にはわかるんだよ。「殺してやる!」という激情は、そのような理屈をすべて総動員しても抑えられるものではない。感情つまり本能は、理屈じゃないんだ!哲学者ジョシュア・グリーンの言う「脳のオートモード」だけで行動する、本能だ。一方、「理屈」は「マニュアルモード」だ。カメラのオートフォーカスは、マニュアル操作より速いから、これを抑えるためには相当な訓練が必要になる。脳が先に出した「結論」に飛びつくのは当然だからだ。
なぜそのような本能があるかといえば彼がそのような性質を持って生まれついたからであり、その点においては彼の責任ではない。
被告は加害者でもあるし、被害者でもある。「出生ガチャ」で、怒りのコントロールができない性格に生まれつくという「ハズレくじ」を引いたのだ。殺人事件の加害者なんて、皆「ハズレくじ」を引いた不幸な人間たちだ。
姉から「図星」を言われた。それは当人への侮辱と受け取った。
<俺を侮辱したらただではおかんぞ>と思う、個人同士の戦争を回避するために人間に備わった<キレる>という本能が、その本能が不要になった21世紀に誤動作した。脳のバグである。しかしその脳の設計は<バグではなく仕様>であり、文明化以前の社会ではそこそこ役に立っていた。
これが殺人事件の根本原因だ。「被告は命の重さを理解していない」とかいう、てんで的はずれな指摘をしているうちは、また同じような事件が起きてしまう。
私が子供の頃とは違って、今の子どもたちは小学校へ上る前に心理検査など行って、発達障害の気があるか、そうでないか調べるらしい。それと同じで、怒りのコントロールができるか、できないかも調べて、それでコイツは怪しいと思われる子供に対して、何か早期に対策できないものだろうか?寺にブチ込むか?自身の性質に対しての客観視がその年齢でできるとは思えないから、まだ早すぎるだろう。では、思春期なら?また、寺ではなくApple Watchを無料で配って「毎日30分のマインドフルネスアプリの実行」をやらせたら?「全く心に響かないお説教」よりいくらかマシだろう。
「俺法廷」の判決を言い渡す
どけ!裁判長!お前じゃ話にならん。こいつみたいなクズの心境は、クズの同類である私の方が理解できるんだ!この判決、私が預かった!
(裁判長の席に座る)えー…。おいコラ、人の話はちゃんとこっちを見て聞くものだ。さて…被告人が2020年12月31日、自身の姉と母を殺害した事件は、全国の引きこもりコミュニティに衝撃を与えた。誰にも迷惑をかけず — 親には迷惑がかかっているが それはそれとして—虫も殺さず生きている「我々」が、逆恨みで親を殺すようなクズ中のクズであるとのそしりを受ける可能性があったからだ。その意味でも、被告人は「引きこもり界の面(つら)汚し」 であり、そのような人間は当コミュニティの「善良な引きこもり達」の中から速やかにパージして、被告は人目のつかない塀の中で死ぬまで暮らしてほしいとさえ思っている。
その反面、「我々」の「同類」である被告人の苦悩を一番理解できるのは、裁判官でも検察でも家族でもなく、実は「我々」であると理解もしている。食べるものと寝る場所があり、寝たい時に寝、起きたい時に起き、「何不自由ない生活」を送っていても、内心は恐怖に震えている。しかし恐怖ゆえ、何も行動できずに現状をできるだけ先延ばしにするしかない — 「我々」の多くは、そのように感じている。自身が作り出した想像上の監獄から出られない。それこそが引きこもりの主原因であると。
では何が恐怖に感じるのか?それは学校でいじめられた経験でもあろうし、自分の属するコミュニティのしきたり、常識、偏見、スティグマ、そういったものに自分の性質が合わない違和感でもあろう。ではそのようなしきたりに自分を合わせるのか?あくまで反発するのか?「我々」は、社会との接点を断つということで、反発した。言い換えれば「自分が適合できない社会から自分を守るために逃げてきた」。
しかしそのような「逃亡生活」は、やがて終わるであろうことは、当事者が一番知っているのだ。一生遊んで暮らせるだけの蓄えがある金持ちの子供でもない限り、そのうち、どうにかして生活費を稼がなければならなくなる。無理にでも社会との折り合いをつけて暮らさなければならないが、それができない。そのうち親は死ぬ。自身のキャリアは白紙状態であり、労働市場で現金と交換できるスキルは持ち合わせていない。
手詰まりだ。どうしようもない。そうだろう?その苛立ちを理解してくれない周囲の人間、特に親兄弟に「図星」を言われたので逆恨みを覚えた。「そんなことは百も承知だ!」そうだろう?
殺人という犯罪を犯した事について、被告人は許されるものではない。取り返しがつかないことをしてしまったのは確かだ。「殺意」という「故意」も十分に立証できる。ではどうする?被告人を死刑にするのか?被告が死ねば、殺された人間は生き返るのか?そうではない。
取り返しがつかない以上、ここは被告人の更生と再発防止を考えるチャンスと捉えるほかない。まず被告人の更生だが、裁判長からの「お説教」は、被告人の心には全く響いていない。的外れということだ。被告は「命の重さを理解していない」から殺人を犯したわけではない。そんなものはわかっている。わかっているが、「侮辱された」という激情を抑えることができなかったのだ。そして、怒りを抑えられない性格に生まれついたのは、被告の責任ではない。被告人の簡単な半生の振り返りでは、今でいうと発達障害と言わないまでも非定型発達のグレーゾーンである可能性がある。詳しくは精神科医による診断を待ちたいが、「空気のような存在の父」も非定型発達であり、その性質が遺伝した可能性がある。被告の「生きづらさ」の原因は何かと考えれば、「型通りに成長した人間が多数派の社会で、型通りの考え・行動を持っていない自分が少数派だから」だ。被告人は非定型発達の脳をもって生まれた。これは本人の責任だろうか?断じて違う。ここが「情状酌量の余地」だ。
自分にとって、まったく理解できない行動様式を取る「多数派」の脅威に怯えるのは生物として当たり前のことである。社会にとって、何が多数派なのか?少数派は不要な存在なのか?というと、そうではない。古代において、「運動はからきし駄目だが斬新な機転を利かせて部族を絶滅の危機から救った、今で言う非定型発達の人間」が部族から歓迎され、生き残り、子孫を残したからこそ非定型発達の系統が現代まで生き残っていると想像するのが、ダーウィン以降の妥当な考えのように思われる。そうであれば、多様な考えを持つ人間を、社会が迎え入れる仕組みを持たないのは「社会の包摂性」をないがしろにした、我々社会構成員、全員の責任ではないのか。
2人以上殺せば死刑になる確率の高い日本の判例からすれば、今回の懲役30年というのは妥当であると言える。しかしこの裁判の本来の目的は被告を罰することではなく更生させることである。そして同様の事件の再発防止のため、今回の事件の根本原因を明らかにし、対策することが肝要であると思われる。そのことについて、今回、裁判長は全く仕事をしなかった。被告が殺人を犯した原因は「命の重さを知らないから」であると誤認したのだ。被告の心境に関する想像がそれでは「安手の刑事ドラマ」の脚本としても失格であると言わざるを得ない。
被告人本人が事件の根本原因を言わないのなら、また理解していないのなら、そして裁判長もそれを理解していないのなら、「同類」である「我々」が声を上げるしかない。
被告は、自分で選んだわけではない生まれつきの性質のせいで、世の中の多数派と折り合いをつけるのが難しかった。それが「子供の頃からの違和感、生き辛さ」の原因であると想像する。そして、子供の頃に他者の集団からいじめられる、といったショッキングな出来事から自分を守るために「最後の砦」である自分の部屋で期限なしの「籠城戦」を展開するしか自分を守るすべを知らなかった。
また被告は、他者と本気で喧嘩をするといった荒ごとを避け、しかし自身への侮辱に対してはどう対応して良いのかわからなかったため、原始的な本能である「俺をコケにしたらただではおかんぞ」という激情を抑えることができなかった。「窮鼠猫を噛む」という言葉にある通り、弱い立場にある人間が「キレる」ことで自分の周りの脅威を排除できる場合があるが、今回はこの感情が誤動作してしまったものと思われる。
自身の、自己否定と自尊心が入り交じる、傷つきやすい「核心」を見抜いてしまった姉や母を、被告は自身への最大級の侮辱、自身への脅威と受け取ってしまった。他人と関わらず、見つからず、ひた隠しにしていた本質、つまり自身の「弱点」が他者にばれてしまったのだ。そうなれば、人に見つからないよう過ごしてきた18年間の「籠城戦」も、弱点を知った敵がどこからか侵入してくるかもしれない。自分の部屋は「最後の砦」なのだ。この砦を失ったら、もう生きてゆけない。「核心」がばれたからには、「籠城戦」をこれ以上継続することは不可能で、相手を殺して自分も死ぬしかない — — 。
これが「怠惰」であると周囲から見られる引きこもりの、命をかけた「籠城戦」の全てである。
被告が「追い詰められた」のは周囲が原因ではなく、すべて当人の妄想である。これらの思考様式はすべて被告の生まれながらの性質によるものであり、それは本人の責任ではない。「追い詰められた」状況は妄想であるが、その恐怖の感覚は、当人には「現実」である。この「妄想」では、実際に追い詰められたのと同じ電気信号が脳の中では発生しているだろうと想像するが、詳しくは脳科学者による研究を待ちたい。すなわち妄想であろうと現実であろうと、本人の脳は等しく「現実」であると「感じ」られているのではないか。脳が同じ信号を発しているのだから、現実か妄想かなど、本人にとっては大きな問題ではない。どちらも等しく「現実であると感じられる」からだ。
更生という点で言えば、無理にでも社会と折り合いをつけ、そこで傷だらけになりながらもがいていくしかないと思うのだが、刑務所の中ではそれも難しい。「反省文」を書けば更生した、というわけではない。そこには実社会の経験が必須である筈なのに、刑務所の中ではそれすらできないので被告人の更生は今後、困難であろうと想像する。
懲役30年の判決を「俺法廷」は妥当であると支持するが、刑務所の中で、何をすれば更生できるのか、専門家と話し合わなければその年月は全くの無駄になるため、条件付きの支持となる。定期的なカウンセラーとの面会が条件である。
再発防止という観点からは、非定型発達の気がある人間に対しては、人生の早いうちに家族以外の人間からの助力が必要に思う。「引きこもりは怠惰な人間がなる」と社会構成員の多数が思っているのなら、それは研究者による研究と啓蒙が足りていない証拠であり、いずれその「妄想の刃」が現実のものとなって自分の喉元に突きつけられることも知らない無知な人間のセリフである。
「社会の包摂性」とは、「市場での交換価値を持たない人間を排除する」から「現代の社会の構成員は、人類何百万年の歴史の中で生き残った最終結果であるので構成員全員が必要である」との認識に改めることである。それが結局の所、社会の多数派と少数派が互恵的な協力関係を結ぶことになると、当法廷は考えている。
本件は自分も周囲も不幸になるだけの事件だった。今回の事件が起きるに至った原因を正しく認識し対策することで、社会構成員の全員が悲劇の再発を防止するための努力をしなければならない。
これにて閉廷。
親を殺すぐらいならホームレスになれ
引きこもりの皆様へ。重要なことなのでもう一度書きますが、あなたの家族は生物学的に絶対の味方です。何を言われても、何があっても、絶対に、絶対に殺さないように。それだけ守ればあなたの引きこもりライフは、親が死ぬまでは延長できます。
どうしても怒りのコントロールができない!私を侮辱した親兄弟を殺してやる!と思った場合は、お前を侮辱する家族とは絶縁して、家出しろ!ホームレスになれ!そうすれば家族がどれだけお前のことを案じていたか理解できるだろう。とりあえずエド・スタッフォードの「60日路上サバイバル」を見てからホームレスになれ。