旗艦店だけ潰せば結構効果ありますよ:暴力革命主義と表現の自由
「ただ、わたしたちにはインターネットのインフラ提供者としての責任があります。『嫌いなサイトだからサーヴィスは提供しない』というわけにはいかないのです。(中略)
自分の好みでサービスの提供可否を決められないというのなら、「特定の集団への憎悪を煽る内容は不可」とでも契約書に書いて、それを理由に停止すれば?
プリンスは「(8chanをダウンさせても)何の解決にはならないことを思うと、絶望的な気分になります」と話す。「一企業としてのわたしたちにとってはこれで終わりですが、インターネット全体の問題は解決していません。ネットにヘイトスピーチが増殖していく根本的な原因は、放置されたままなのです」
「根本的な原因は、放置されたまま」だと思うなら、啓蒙活動に資金援助すれば良い。これは企業として「これで終わり」の先にある活動だ。
このような閉鎖処置をしたところで、過激主義者の温床になるようなサイトはホスティングを変えて再開するだけ、というのは確かだが、ホスティング問題よりもGoogle八分さえされてしまえば大衆の目につきにくくなるから、8割がた解決すると思うけど。最近そんなことを私は思うようになってきた。
ネット規制は大衆の権利の抑圧であるとか、ヘイトスピーチは表現の自由であるとか、いろいろな意見があるが功利主義的な考えから言わせてもらえば、自分の妄想をぶつけて少し良い気分になるのと、それによって多くの人々が不快な気持ちになるのは、引き算をすると合計値はプラスかマイナスか?という話にもなるし、そもそも「ヘイトスピーチをする権利」は選択可能な自身の権利だとする一方で、相手の「ヘイトスピーチに晒されない権利」も選択可能でなければそのような権利など存在しない。だから、以前、どこぞの美大生の女がTwitterで「ヘイトスピーチも表現の自由」とか言っていたが、これを小学生並みの屁理屈、浅薄な考えだと笑うことはできない。大部分の、いい年した大人が、この屁理屈に対してすぐに反論するほどの脳ミソの訓練はできていないからだ。
約30年前、インターネットの商業化以前の「紀元前」からネットのサブカルチャーに浸かっていたが最近になって飽きてきた私が思っていたのは、まさにCloudFlareのトップと同じ意見だったけど、今は少し違う。自分の考えを、より真実に近いであろうと思われる方へ修正した。
ほとんどの人はテクノロジー音痴であり、大通りの旗艦店が閉店になれば、それが路地裏に引っ越したところで気づかないのだ。Googleの検索結果から消えればそれは存在しないのと同じであり、皆がこぞってダークウェブを見に行くわけではない。インターネットで個人が情報発信、なんなら自宅サーバーでホスティングをすれば良い、もしくは防弾ホスティングでVPN、などと考えているのはオタクのオッサンだけであり、ネットのサブカルチャー歴の短い人、あるいはSNS時代にスマホではじめてネットに触れた人たちにとって、インターネットとは検索エンジン+SNSが全てであり、だからこそ金盾は、大手サイトをブロックするだけで十分なのだ。革命思想は、それが少数の間だけで共有されている内は何も問題ではない。
問題の根本原因は人々の思慮のなさ、思考の浅はかさであり、それを嘆いても何も解決しない。むしろ、人間の行動や思考は無知であり、自分の行動がどのような結果を招くかまるで分かっていない、放っておけば勝手にドブに落ちて死ぬ、あるいは他人をドブに突き落として殺すだけの存在だという認識を前提として、うまいこと皆で暮らせるように誘導しなければならない。これはいけ好かないエリート主義ではなく、フールプルーフ、社会デザインの問題だ。
インターネットは個人をエンパワーメントしたが、同時にバカもエンパワーメントしてしまった。そして人間社会の構成員のほとんどはバカである。だとすれば、解決策は2つしかない:
- 人類全員を啓蒙する→ドブに落ちない生き方を自ら進んで選択できるようになる
- ドブに落ちないためのガードレールを作る→誰かに誘導されてはいるが、結果としてドブに落ちないし、それを自分で選択できている。ガードレール付きの峠道をドライバーは自分で落ちないように運転している。これは強制ではなく自由意志だ
1は無理そうなので、2しかない。そして、過激思想や暴力革命思想に対し、人間の脳にプレインストールされている部族主義モジュールが活性化したことを「感じた」だけで、それが何か自分で考えた神聖な結論であると誤解させないようにするしかない。脳の部族主義モジュールは、人間がそれぞれ孤立した部族社会で暮らしていた時は有効だったが、グローバル化した社会においては盲腸のようなもので邪魔でしかない。
最初からそのような動きをする無駄な機能が自分の体に備わっていたとして、それが外部環境によって活性化されたからといって、それは誇れるようなものか?だとすれば、空腹を感じたり、眠かったり、排泄したかったりすることも「自分で考えた神聖な価値」なのか?
たとえ脳にプレインストールされている邪魔なものがあっても、それに従うではなくそれをよく認識した上で意志の力により排除できると。これは人間にしかできない芸当であり、これこそが「人間の誇り」だと思っているのだけど、誇りだとかプライドだとか常日頃からよく言う奴らは「腹が空いた、ウンコをしたい、よそ者を排除したい」といったテナガザルでもエンゼルフィッシュでも感じる欲望を「誇り」だと思っているようだ。
エンゼルフィッシュは水槽で飼っていると、後から水槽に入れた新入りを死ぬまで突き回す。
あとWIRED日本語版の、外来語のVの部分を何でも「ヴ」と表現して、現在日本語表現としてあまり普及していない表記をして一人悦に入っているのが嫌いで仕方がない。技術オンチの編集者ふぜいが知ったかぶりのイノヴェイションがマスターヴェイションであると思った。「void*はC++で未知数を表す」とか平気で書いてあったからな(注:void型のポインタだしC++ですらない。大体プログラミング言語に「未知数」などという概念は無い。C系ならせいぜい「初期化しない変数の宣言では、その変数の値は不定、コンパイラに依存する」くらいだろう)。