毎日が「世界の国からこんにちは」
贔屓のスポーツチームがあるという謎
私が子供の頃、日本テレビの平日朝に「ズームイン!朝」というテレビ番組があって、今にして思えば、あれが「生放送ニュース&スポーツ番組」のはしりであったように思います(今もあるかは知らない)。
キー局・日本テレビにいる司会の徳光和夫と全国の地方局ニュースキャスターがニュースや天気を話し合うという内容で、その中で「プロ野球入れ込み情報(だっけ?)」というコーナーがあり、各人が贔屓にする野球チームの、昨晩の勝敗を喜んだり悲しんだりするという内容でした。徳光は日テレ=ジャイアンツに「入れ込んで」おり、大阪読売テレビの辛坊某というキャスターはタイガースに「入れ込んで」いる、といったような「設定」になっていました。タイガースが負けた翌日の「難儀やなあー」が流行語になったりもしましたが、今、右派ポピュリストになった辛坊に対しては死ねって思いますけどそれはどうでもいいとして、子供心にそれを見ていた私が疑問に思ったのは、自分と全く関係のないスポーツチームの、どうでもいいゲーム上の勝負に、なぜ一喜一憂する必要があるのか?赤の他人をなぜ好きになれるのか?という事でした。
そのチームに自分の兄弟親戚がいれば、それは応援もしますけど、見知らぬ他人をどうして応援しなければならないのか?そんなに博愛主義者なのか?いや違う、こいつらどうせ、往来で困っている人がいても助けようともしないのだ。ではなぜ?野球賭博でもしているのか?全くわからない、というかいい大人が全力疾走するなどという滑稽な見世物の何が面白いのか?と子供の頃から思っていました。なぜ自分と全く利害関係のない集団を自分と同一視しているのか、という。スポーツ選手を英雄視する文化も全く理解できず、けん玉チャンピオンと何が違うのか、と思っています。単にこの世界では何の役にも立たない特定の芸…楽器を演奏したり、芝居をしたり、スポーツをしたり…が芸術的に意味のある事だと(歴史の偶然から)思われているだけで、例えば1000年前の日本だったらスポーツなんて、貴族の蹴鞠以外は「ガキの遊び」であり、それが上手かったからといって何も偉くもない。きのうテレビをつけたら水泳をやっていて、下の煽りテロップに「国家の威信をかけた一戦」のような意味のことが書かれていました。速く泳げたからって、その糞の役にも立たないスキルの何が偉いんだ?国?わけのわからない事を言ってるんじゃないよ、いい年した大人が。どこかの並行宇宙では、けん玉チャンピオンこそが英雄であり、徒競走だとか、水泳だとかで速い奴らなんて、どうとも思われていない、という事になっていたとしたら、今英雄視されているスポーツ選手たちは自分が得意な分野が持て囃されている世界に偶然生まれたというだけで、何も偉い事ではない。私はけん玉チャンピオンの方に同情する。
スポーツに価値があると思っているのは他人もスポーツに価値があると思っているからで、紙幣を単なる紙切れ以上の価値があると思っているのと同じ構造だ。皆がそれらについて価値がない、と思った瞬間に価値はなくなる。大半の人がその催眠術に気づかないようだが、私は偶然にも生まれつき催眠術が掛かりにくい脳をもって生まれてしまったせいで、地球人たちの変な習慣には首をかしげるばかりだ。誰が悪いんだ?古代ギリシャの脳筋たちが悪いような気がしてきた。
あるオーストラリア人男性の回想
定年退職後、夫婦で2ヶ月半かけて日本をドライブ旅行をしているオーストラリア人と話をしたときのことです。東京オリンピックというイベントについての話になり、彼は「2000年にシドニーオリンピックが開催された時は、選手を自宅に泊めたりしていたよ。あの時は楽しかったなあ。世界中の国が、政治も経済も関係なく、一つになったようで…」と回想していました。
あれ?そうなんスか?私、オリンピックなんて途上国の土建屋ボーナスステージなんだから、次はトルコでやれよ、その方がエルドアンもたんまり溜め込めるだろ、それが東日本大震災に対する同情票で日本になったってだけだろ、気にするなよ、「ウチ」の問題だ。原発事故で死んだ人もいなかったよ、と思っていたのですけど、そんなに良いイベントだったのですか。
高度経済成長時代から変わらぬメンタリティ
野球や水泳が好きなんだ、という人は存分にしてもらって結構。それが悪いわけではない。古の日本のエースストライカー、大空翼も「それにつけても俺たちゃ何なの ボール1つにきりきり舞いさ」と自分を客観的に見ると馬鹿みたいだけど、サッカーが好きだからしょうがないじゃないか、という心境を歌っているではないか。
オリンピックが開催されたら世界中から外国人旅行者が来るから「おもてなし」をしなければならない?何を言ってるんだ?そんなモノなくったって毎日のようにたくさん来ているのに、こいつらには見えていないのか?大体、そう思うのなら看板も時刻表も日本語表記だけではなく最低でも英語で併記しなければならないし、居酒屋へ行ったときの「お通し」なる、頼んでもないのに勝手に出して金をせびるような因習はグローバルスタンダードの基準に照らし合わせて廃止して、テーブルチャージなり何なりと名称変更しろよ。トラブルのもとだ。
ラジオやテレビを付けると、あと一年でオリンピックがやってくるだとか、皆さんの事を洗脳したくて必死ですけど、外国人旅行者はンなモン無くてもたくさん来ています。政府観光局のデータによると、2003年に521万人だった外国人旅行者が、2018年には3000万人を超えているようです。
この21世紀、航空運賃の低廉化と世界的な所得の増加(日本を除く)により、オリンピックといった「特別なイベント」が無くても良い、という事になりませんか。もちろん、オーストラリア人の彼のように「世界中の国が、政治も経済も関係なく、一つになったよう」に思えるのならそれはそれで良いと思います。しかし今のオリンピックキャンペーンから漂う、ある空気…「特別」なイベントがあるので、外国人という「特別」な人たちが来るのだ…という、前回の東京オリンピック、そして大阪万博を「世界の国からこんにちは」と歌った三波春夫の頃から、日本人のメンタリティは時代について行っているのだろうか?
外国人に対する考え方はトランプ以下
こんな調子で「労働力という果実だけ欲しいが移民は要らない」なんて都合の良い事を考えている田舎者の日本人が居たら、外国人に対する考え方はトランプ以下だな、と思う。アメリカが、19世紀末から100年以上に亘って移民を受け入れてきて、その長い歴史があっても尚いまだに問題を多く抱えているのだ。私は移民に対して「元いた国へ帰れ」とは思わないが、多くの日本人の国際感覚があまりにもショボいために、安易な移民受け入れは摩擦を招くだけだと思う。では労働力の確保について他に案はあるのか?と聞かれたら、無い。お前ら機械音痴が好きなエーアイとかがどうにかするんじゃないんですかね?(どうにもならない)。
移民が「元いた国へ帰」らなくても良い理由
人間は、自分の全行動に責任なんか取れないからです。それが賢い行動であれ、愚かな行動であれ。人間の「自由意志」なんてものは存在せず、脳内にランダムに思い浮かぶ欲望が生まれたことを感じて、それにもっともらしい理由をつけているだけだ、というのが脳科学で分かったらしいですよ。私がこの考えに深く納得するに至ったのはマイケル・ガザニガの本などではなく、同じMediumの記事だった。
そもそも人間は自分のしたこと、善なるものであれ悪しきことであれ、その行為の責任をとることが殆どできない生き物だ。その意味において、「〜という結果になったのは私のせいだ」という考えは錯覚だ。社会は巷間云われるほど単純ではない。
ライターはこの文を書いた当時は大学生だっただろう。若いのにすごいな。貧困問題に関しては生まれたときの周囲の環境で決まるので、これを「自己責任」としている奴らは、なぜ東大の学生が首都圏出身の坊っちゃん嬢ちゃんで占められているのか、なぜ大学の医学部の学生の親は高確率で医者なのか、説明できるんでしょうかね?