画面に写っていない9歳の私を見た気がした
鮭が大人になると生まれた川に帰りたくなるように、人間もそのような行動がありはしないだろうか?それを郷愁だとか、ノスタルジーだとか、サウダージだとか呼んでいるのだと思う。
さて私はYouTubeばかり見るという非生産的な悪癖を止められないでいるのだけど、昔の鉄道ファンが録画したであろう、1986年の「踊り子号」が東京から熱海まで走るビデオを見てしまった。
1986年というのは「国鉄最後の年」であり、この赤字続きだったナショナル・レイルウェイ・カンパニーは翌年に私企業であるJRにその膨大な借金を継承した。そのようなことを聞くと、これは大昔である!と感じてしまうのだけど、フィルムではなくビデオカメラで録画されていると、それが「ギトギトの圧縮がなされた質の悪いビデオ」のように感じられ、ついこの間の景色のように感じてしまう。
ビデオの最初の方、東京から品川までは今とは全く違い、高層ビルの少なさに驚いてしまう。この38年の間、いかに東京周辺が高層ビルだらけになったのか、改めて驚く。
しかし電車が横浜を過ぎたあたりから、これは私が20年近く、週5回、1日2回見た景色とほとんど一致して、まるでヨーロッパの古い街を数十年ぶりに訪問したかのようにまるで町並みが変わらず、人だけが年を取っていた、といったように見えてしまった。
そしてビデオではよくわからないが、そこには私の実家の半径50mくらいが写っていた。そこには当時9歳の私がいるはずで、私はそれを信じられない思いでみていた。当時9歳というと、私は早生まれなので小学校4年生かそこらなのだけど、私は毎日何をしていたのかまったく思い出せない。思い出せないが、町並みは当時とほとんど変わらない街に住んでいるというのが、奇跡のように感じられた。そして鏡の前で自分の顔を見ると、何か、夢でも見ていたのではないかと思う。
大船から藤沢までの、ほんの3分ほどの走行ではあるのだけど、ああ、武田薬品の古い建物があるなあ(今は湘南ヘルスイノベーションパークになった)とか、S君の家がまだ古い時で、おばあちゃんが仕立て屋をしていたなあ、とか、この年、ちょうど橋の架替え工事をしていたなあ、というのも本当に久しぶりに思い出した。
もしこのビデオの中に9歳の私が歩いている姿でも写っていたら、私は泣いてしまっただろう。それは何と言うか、今の私が、当時の私に「その後の38年間の間にあなたと世界に何が起きたか」を伝える手段がないからだ。
藤沢を過ぎると、東海道線沿線は大きな工場がたくさんある。
パナソニックの電池工場があったけど、今はなくなって、小金持ちのための分譲住宅地になってしまった。
ソニー湘南テクノロジーセンターはまだあるけど、PC事業の撤退により、今は一体何をしているのかよくわからない。ソニーは今やゲーム機と、iPhoneのカメラを作っているメーカーになってしまったので。
茅ヶ崎の宮田自転車は現在、台湾のメリダの子会社になっているようだ。
このように書くと、1980年代というのは日本の第二次産業が華やかだった最後の時代であり、その後どうなったのかというと私は知らない(そういった会社のお偉いさんに聞いてほしい)。
私はどうしても日本とイギリスと同じように考えてしまうので、イギリスの第二次産業(自動車など)が、ブリティッシュ・レイランドを経て、ほぼ壊滅したのが1970年代であり、その後は金融業がヨーロッパの金融センターとしての役割を持ったり、英語を学ぶ世界中の学生を呼び寄せているなど、要するに、昔、金持ちだったという祖父の遺産で食べているバカ息子*のように感じられる。
*言い方は悪いが、BBC「トップ・ギア」のジェレミー・クラークソンを見て「これがイギリスの笑いか」と学んだ私からすれば、こんなもんじゃないの?
それでは日本の産業はどうだっただろうか?「元々貧乏な家に生まれたが努力と時の運で金持ちになってしまった」ベンチャー人間に例えられる戦後の日本企業といえばホンダとソニーぐらいだろうが、ソニーは上で書いたとして、ホンダは日本では「軽自動車ばかり作っているメーカー」ぐらいの認識しかない。アメリカに輸出している、もう少し大きなクルマを見ても「ダッセエなあ…アメリカ人は何でこんなモンをありがたがってるんだ」と思っている。
組織というか人間というのは、一度成功したら、その成功体験を繰り返してしまうものでもあるし、異論を受け付けないような体制ができてしまうのは、これは組織の老朽化だろう。
イギリス重工業(自動車産業など)が壊滅したのは未だに「犯人探し」がされているが、大まかにいって容疑者は「常態化したストライキ」「マネジメントの不足」「過剰な政府介入」であるようだ。日本はどうだろうか?「護送船団方式」などと言われていたのは20世紀の話であり、今ではない。ストライキ?労働組合なんて有名無実になった。皆がスマートフォンを持っている時代に会社の前でわら半紙を配ってる奴らだ。
私はその組織の老朽化というか「落ちぶれた」原因は、年長者を敬う(歯向かわない、意見しない)という、あの儒教の悪影響ではないかと思っている。
私は生まれつき「非定型発達」の傾向が見られるようで、その性格をもって世の中を見ていると、私は子供の頃から「大多数に従う」日本社会の習慣が嫌で嫌で仕方がなかった。もし私がアメリカで生まれていたら、こんなに悩まなかったのでは?と思うほどだ。
なので、2000年代によく日本社会で言われていた「空気を読む(reading atmosphere)」というのは要するに「寄らば大樹の陰」というか「体制に従え」という同調圧力の一種であり、そこには自分の脳ミソで何か考えた結果には到底思えず、私は大嫌いだった。しかし私が大嫌いな「空気を読む」は、実は「自分がどの同盟に属しているのかをディスプレイする」という知的な行為であったことを知り、ますます嫌いになった。
法学者であるダン・カハンはある種の信念は文化的同盟のシンボルになっていると主張している.人々はこれらの信念の是非について,その是非を知っているかどうかではなく,自分がどの同盟に属しているかに従って態度を決めているのだ.(略)
カハンは,そういう意味では人々の選択は「合理的だ」と指摘している.人々が進化や温暖化について特定の信念を表明した場合に,それが世界を変える可能性は極めて小さいが,彼等の属するコミュニティにおける扱われ方には大きな差が生じるからだ.我々は「信念の共同体の悲劇」の登場人物なのだ.
この「表明される合理性」「アイデンティティ保護的認知」の背景にあるダークなインセンティブは21世紀の非合理性のパラドクスをよく説明してくれる.2016年の大統領選の中で,多くの政治評論家はトランプ支持者のあからさまな虚偽や陰謀論を支持するコメントを信じられない思いで聞いていた.実は彼等は「青い嘘(イングループのためにつく嘘)」を共有していたというわけなのだ.彼等は陰謀論を支持することで,リベラルに反対し,団結をディスプレイしていたのだ.そしてディプレイのシグナルとしては,ばかばかしい嘘を信じているということがコストのある信頼できるシグナルになる.
https://shorebird.hatenablog.com/entry/2019/04/10/212625
私は小学校までは天国だったが、中学校に入るととたんに「先輩」だの「後輩」だのといった因習(悪い伝統のこと)が学校文化に入り込み、以来学校には二度と行っていない。
日本に20年ちかく住むアメリカ人のポール何某氏は、この学校の「先輩・後輩」の上下関係は実力主義を阻むと自身のVLogで話をしていたが、私はこの傾向は学校だけではなく、会社組織や地域コミュニティにも同様だと思っている。
いま、日の出の勢いの韓国企業だが、もし韓国の会社組織が日本よりも儒教の影響が強い「先輩・後輩」「年上を敬う」文化にある場合、組織は新陳代謝ができず、遠からず日本企業と同様に落ちぶれる運命にあると思う。
これは東アジアの住人が農耕生活をしていた頃の話であり、技術革新や自分を取り巻く社会環境が急激に変わらなかった時代は、人生経験の多い人間の意見の方が正解である場合が多かっただろう。しかしこれほど技術革新や社会環境の変化が激しい時代になって、年寄りはその権威を全く失ってしまった。たんなる「時代についていけない哀れな老人」が「昔、一発当てたという成功体験」を若い世代に語っても意味がないからだ。
老人はこれから「権威」ではなく、孫の世話や、「自分の経験をもとにした人生哲学」を若い世代に語るのなら、立派にその役目を果たせると思う。
それが38年後の、私の今のところの感想だった。9歳のあなたにはあまり理解できないと思うので、まあ、スーパーマリオでも遊んでいてください。