皆若くてキャリアを築かれており、驚く。翻って自分はどうなんだ?:薔薇はシュラバで生まれる―70年代少女漫画アシスタント奮闘記―
皆が凄いのか、私が凄くないだけなのか
著者の漫画家デビュー前後に経験した、著名漫画家アシスタントに関する思い出を綴ったコミックエッセイ。中学生の頃に漫画を出版社に持ち込んだ帰りに、ファンだった美内すずえに会うエピソードから始まる。
中学生!美内すずえも二十歳そこそこ!
作家と読者の距離
インターネットの無い紀元前、作家と読者をつなぐのは唯一ファンレターしか無かった。昔の漫画雑誌などを見ると、作家の住所が普通に「ファンレターの送り先」として公開されていたりして驚く。いつからかそんな事にはならなくなったのは、漫画家じゃないけどジョン・レノンが頭のおかしいファンに殺されたりして、アーティストの住所を公開することの危険性を出版社が認識したからだろうか、などと思う。
著者も美内すずえのファンであったことからファンレターを通して交流があり、その数年後に様々な漫画家のアシスタントをすることになる。まるで中世ヨーロッパの職人遍歴のようだけど、当時はそのようなキャリアでしかプロ作家になれなかった。当時は漫画雑誌も限られた数しかなく、畢竟、そこに作品を載せられる作家数というのは、これはNBA選手とかF1ドライバーと同じくらいの人数しかいなかったのではないか。なろうと思ってなれるものではない。今どきは漫画家だろうがお笑い芸人だろうが、名乗ったもの勝ちのような感じではあるし、作品発表の場だって、とりあえずSNSに載せておくとか、Amazon Kindleストアで名刺代わりにタダで配っておく、という手段もある。インターネット以前の紀元前には、それが1980年代なら自費出版の同人誌を同人誌即売会で売る、という発表の手段もあったし、1970年代以前なら、印刷費も出せないとなれば漫画サークル内での肉筆回覧しかなかったことを考えれば、隔世の感がある。
以前、ファンにとって作家というのは「雲の上の存在」であったのだけど、今はどうなのだろうか?いきなりSNSで繋がれるような存在でしかないと思う。そして作家になるハードルも下がり、ネット上で自分の作品を手売りすれば「熱心なファンが200人いれば食える」時代に、今はなったのか?
早熟の天才と社会全体の愚かさ
なんというか、漫画は読者も作家も同じような年代でないと感性を共有できないのか、特に少年少女向けの漫画はそのような傾向があったように思う。40もとっくに過ぎた今の自分が思うのは、二十歳そこそこの奴に何が分かるんだ、という思いだけど、早熟の天才というのはいるものなのか。数学の天才も若い頃にしか才能を発揮できないと聞いたことがあるし、脳がいちばん働いている頃なのだろうか?自分の子供の頃に考えると、十代後半やら二十代というのは十分に大人に感じるのだけど、今ではそんな年代は単なる子供だと思っている。著者が美内すずえに最初に会ったのが1971年、世間だと学生運動が終わりつつあって、一部の学生たちが過激化して山荘で殺し合いなどして大衆の支持も得られなくなっていた頃だけど、だいたい大学生ふぜいが「労働問題」がどうだとか言っているなら、私なら「働いたことも無いくせに何言ってるの?パパとママに食わせてもらってる癖に?」の一言で終わりなのだけど。昔の若者は大人びていたのだろうか?だとしても人生経験が足りてないのに。当時は私のような印象を持つ人が居なかったのだろうか?皆馬鹿だったのだろうか?何の話だ。
とにかく、作家という自分自身の才能だけで全てが決まる、何の保証もない厳しい世界において情熱のみで突き進めるのは若いうちだけだと思うし、それを一生の仕事にできる人は更にごく一部の、本当の天才、才能と幸運に同時に恵まれた人だけなのだと思う。
例えばいくら才能があっても、インターネットも無い当時の状況では、作品発表の場は雑誌しか無く、日本において出版社は東京にしか集まっていないことから、どのみち上京するしかない。これには相当の覚悟が必要だ。著者は幸いにも横浜に住んでいた幸運のおかげで、横浜・大さん橋で開催していた鈴木光明主催の漫画勉強会にも行けた。そこで当時の新人(後に人気作家になる)やら、ベテラン作家とも交流して刺激を受けた。これは地方在住なら無理だ。美内すずえは大阪出身で(本書中でも大阪弁で話している)、おそらく漫画家になるために上京したのだろう*1。そのくらいの覚悟と情熱が無いとプロとして生計を立てることは無理なのだけど、今は地方在住のプロ作家が増えているのだろうか?
いまの作家は四六時中、SNSでキャッキャしている様を見ると、当時より作家と読者の距離は近づいたようだけど、交わされているコミュニケーションの内容の薄さを見ると、それで幸せなのだろうか?と思う。結局その世界のパイオニア達がものすごい才能と情熱で切り開いた道を、大したことのない奴らが舗装道路になった道を車で悠々と通っているだけに見える。これが漫画の民主化だバンザイ。メシ食う漫画でも描いてるといいよ。
*1)作品中「美内すずえ先生が東京へカンヅメになりに来るから手伝ってほしい」と雑誌編集者から電話が来る場面があるので、美内すずえはプロになっても大阪が拠点だったと分かった
修羅場ってなんだ
恋人関係のもつれとして使われることの多い言葉である「修羅場」を、漫画制作作業が忙しい意味で最初に使ったのは、1970年代前半の美内すずえか和田慎二であるという著者の考えが載っていた。「花とゆめ」コミュニティが作り出した言葉だったのか。
漫画をイメージした音楽アルバム
これこそ現代には絶滅したジャンルだろうか。今の人なら「え?漫画原作ってアニメじゃないの?」と思うかもしれないけど、当時は漫画世界をイメージした音楽アルバム、“イメージアルバム”というものがあった。アニメだと制作費が掛かりすぎ、音楽なら…という音楽業界と出版業界の繋がりがあったのだろうか?それを読者はどう受け止めていたのかは知らないけど、とりあず音楽を聞きながら漫画を思い出す、という極めて受け取り側の想像力が試される娯楽だった。
オカルトおばさん
この漫画には描かれていないけど、多作でハードワークを続けていた美内すずえはその後、宗教だか精神世界だか、とにかくオカルトにハマって寡作作家になってしまった。本書の中にも、漫画製作作業中の「眠気覚まし」として怪談をする、というのが通例であったような描写がある。女性だからなのか、時代がそうさせたのか?
ホラー漫画というジャンルがあり、それはスティーブン・キングの「ミザリー」のような、生身の人間の恐怖ではなく大抵が幽霊話だ。私も稲川淳二の怪談が好きだけど、それは落語のいちジャンルとしての怪談話、話術を楽しむために聞いているのであって、あんな話が本当にあると信じるほど馬鹿じゃない。オカルトにハマった漫画家を、仮にAさんとしておきましょうか…。
若い読者向けの漫画を描いている人は大抵デビューも10代で、会社勤めなどしたこともなく、いきなり個人事業主になり、交流する相手も取引先の出版社の人間か、アシスタントか、作家繋がりだけという要は似たような人間からなる狭いコミュニティの人生経験だけで、視野が狭くなってるんじゃないの?(だから結婚相手も大抵が同業者だ。本書の著者もそうだ)それって作家として自分の作品の幅を狭めることになるんじゃないのか?などと余計なお世話を思う。
今の若い人がそれほどオカルトにハマる、などという話は聞いたことがない。今の人達が過去の世代よりも賢くなっている証拠だ。
労働環境の改善
漫画の最後、舞台はいきなり現代になって仲間たちと当時を振り返る場面で、昔の作業環境がいかに滅茶苦茶だったのか、それに比べて今はどんなに改善したのか、という話題がある。昔は忙しくなると2,3日徹夜だったが、今の作家たちは徹夜などしないという。もちろんそのような命に関わるようなハードワークは著者も推奨していないが、当時、一段低く見られていた少女漫画の質的向上を目指した当時の作家たちの熱い時代だったと振り返る。
今はどうだろうか?男が読むもの、女が読むもの、といった古臭いジェンダーみたいな考え方は無くなりつつあるというのが私の感想なのだけど。
初期の少女漫画は、手塚治虫の「リボンの騎士」のように男性作家が女性読者に向けて描いていたものが、いつの頃からかそれは女性作家の独壇場になり、別に訴求対象を女性にしなくても良くなるというのが少女漫画の未来だろうと思う。男が描いたのか、女が描いたのか、どのような属性の人間が描いたなどということはどうでもよくて、作品自体を評価しろよ、となった時点でようやくこの下らないジャンル分けが終わるのではないか。
スウェーデンでは子供の玩具も男児用、女児用と区別がなくなっているというから、漫画もそのうち少年向け、少女向けという区別がなくなるのでは。
漫画として
読みやすいです。絵も可愛らしく、当時の少女漫画の名作を読んだ人や、当時の雰囲気を知りたい人にお薦めします。
私は何なんだ
若い頃に、全てを捧げられるようなものがあったのか?なかった。
自分に、何か特別な才能というようなものがあったのか?なかった。
そういったものがあれば偉いのか?偉くはないが、充実した青年時代を過ごせると思う。
そこに「中年の危機」が起きて、若い頃あれほど熱中してものが、自分にとって大した価値が無いと思ってしまった時はどうするのだろうか?また「第二の人生」を歩めばよいのではないか?
ブレブレで生きたほうがマシ
ここ10年くらいだろうか、「ブレない」という言葉が大変ポジティブに使われている。その言葉を聞くたびに引っかかるものがある。
後で間違いだと判明しても、嘘をつき続けるのも「ブレない」だが、それは褒められた態度だろうか?
他にもっと改良する方法があったとしても何もしない「ブレない」が褒められた態度だろうか?
間違いを認めない強情な態度よりも、間違いを認める方がどんなに勇気がいることか。
「ブレない」は、人生の態度として良くないのではないか。生まれた瞬間から「私は将来、漫画家になる」と思っているのだとしたらそれは単なる妄想だろう。何かに固執する生き方ほど醜いものはない。そう考えれば、美内すずえももうオカルトおばさんとして生きて、漫画は別に描かなくてもいいんじゃないか?とさえ思う。「私は若い頃、漫画に情熱を傾けていました」というだけで。