私がホモ・デウスでハイライトした所(2)
第6章 現代の契約
現代というものは取り決めだ。私達はみな、生まれた日にこの取り決めを結び、死を迎える日までそれに人生を統制される。
(中略)ところが実際には、現代とは驚くほど単純な取り決めなのだ。契約全体を一文にまとめることができる。すなわち、人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意する、というものだ。
№4225
現代を生きる全人類の生き方を、一文にまとめやがった!この鋭さ!
私たちがどんな道具をいつでも意のままに使えるかを祖先が知ったら、私たちは何の不安も心配もなく、この世のものとも思えない平穏を楽しんでいるに違いないと推測したことだろう。ところが、真相はそんな平穏には程遠い。私たちはこれほど多くを成し遂げてきたにもかかわらず、なおさら多くのことをしたり、多くのものを生み出したりするようにというプレッシャーを絶え間なく感じている。 私たちはそれを自分自身や上司、ローン、政府、学校制度のせいにする。だが、本当の責任はそこにはない。すべては、私たち全員が生まれた日に結んだ現代の取り決めのせいなのだ。近代以前の世界では、人々は社会主義の官僚制における下級官吏のようなものだった。彼らはタイムカードを押し、あとは誰か他の人が何かしてくれるのを待つだけだった。現代の世界では、私たち人間が事業を運営している。だから私たちは昼も夜も絶えずプレッシャーにさらされて
№4574
なぜ法律を守らなければならないのか?生まれたその日に、法律を守ると国と新生児が契約書でも交わしたのか?という疑問は「これからの「正義」の話をしよう」で取り上げたテーマだった気がする。
第7章 人間至上主義革命
人間至上主義は私たちに教えた。人殺しが悪いのは、どこかの神が「殺してはならない」と言ったからではない。そうではなく、人殺しが悪いのは、犠牲者やその家族、友人、知人にひどい苦しみを与えるからだ。盗みが悪いのは、どこかの古い文書に、「盗んではならない」と書いてあるからではない。そうではなく、盗みが悪いのは、所有物を失った人が嫌な思いをするからだ。だから、ある行動のせいで嫌な思いをする人がいなければ、その行動はどこも悪くない。人間の像もも動物の像も作ってはならないと神が人に命じたと、先ほどの古い文書に書いてあっても(「出エジプト記」第20章4節)、私はそういう像を彫刻するのが好きで、彫刻するときに誰も害さないのなら、いったいそのどこが悪いというのか?
№4730
これは著者の、同性愛批判に対する思索の成果だろう。「人類の発展は虚構と共にあった」という発想は、同性愛批判の聖典に関する疑念、「聖典のここに書いてあるからお前は罪人だ。なぜなら聖典は権威だからだ」というツッコミに対しての権威の仕組みへの疑念、そして仏教の坊さんに「あなたが今の状態なのは前世の因縁です」と言われて仏教に傾倒した…証拠はないけど、そんな所じゃないんですか?
天使や悪魔は世界の森や砂漠を動き回る現実の存在から、私たち自身の心の中に存在する内なる力に変容した。天国と地獄も雲の上と火山の下にある現実の場所ではなくなり、内部の精神的な状態と解釈されるようになった。人は心の中で怒りや憎しみの火を燃え立たせるたびに地獄を経験し、敵を 赦したり、自分の悪行を悔いたり、貧しい人に富を分け与えたりするたびに、天国の至福を楽しむのだ。 これこそ、神は死んだと言ったときにニーチェの頭にあったことだ。
№4867
へえー。あの有名な言葉には「もはや神はすべての意味の源泉ではなくなった。人間個人個人が、意味の源泉である」という意味だったとは。
仮に私が神を信じていたら、そうするのは 私の選択 だ。私の内なる自己が神を信じるように命じるのなら、私はそうする。私が信じるのは、神の存在を 感じる からで、神はそこに存在すると私の心が言うからだ。だが、もし神の存在をもう感じなければ、そして、神は存在しないと突然自分の心が言い始めたら、私は信じるのをやめる。どちらにしても、権威の本当の源泉は私自身の感情だ。だから、神の存在を信じていると言っているときにさえも、じつは私は、自分自身の内なる声のほうを、はるかに強く信じているのだ。
№4876
神の存在に関する信仰も「私がそれをある、と感じているから」であり、それは個人の内なる声であり、すでに人間至上主義になっていると。
第8章 研究室の時限爆弾
今日、ある人がなぜナイフを抜いて別の人を刺し殺したのかと学者が尋ねたときには、「なぜなら、そうすることを選んだからだ」という答えは通用しない。代わりに、遺伝学者や脳科学者はもっとずっと詳しい答えを与える。「その人がそうしたのは、脳内のこれこれの電気化学的プロセスのせいであり、それらのプロセスは特定の遺伝的素質によって決まり、その素質自体は太古の進化圧と偶然の変異の組み合わせを反映している」
№5732
前章で、全ての判断は自分の心が起こすと言ったが、あれは嘘だ。その心も実は自分が考えたものではないと。
もし「自由意志」とは自分の欲望に即して振る舞うことを意味するのなら、たしかに人間には自由意志がある。そして、それはチンパンジーも犬もオウムも同じだ。オウムのポーリー〔訳註 映画『ポーリー』に出てくる、人間の言葉が話せるオウム〕 は、クラッカーが欲しければクラッカーを食べる。だが、肝心の疑問は、オウムや人間が内なる欲望に従って行動できるかどうかではなく、 そもそもその欲望を選ぶことができるかどうか、だ。なぜポーリーはキュウリではなくクラッカーが欲しいのか? なぜ人は疎ましい隣人を大目に見る代わりに殺すことに決めるのか? なぜ黒ではなく赤い自動車をこれほど買いたがるのか? なぜ共産党ではなく自由民主党に投票したいと思うのか?
№5760ところが、人がたどりうる思考の路線はたくさんあり、そのなかにはその人に、自由民主党に投票させるものもあれば、公明党に投票させるもの、さらには共産党に投票させるもの、自宅にとどまらせるものもある。他の思考の路線ではなく、その路線を私たちに取らせるものは何なのか? たとえて言えば、脳内の東京駅で、人は脳の決定論的なプロセスによって特定の思考の路線を走る列車に乗り込まされるのかもしれないし、ランダムに路線を選んで列車に飛び乗っているだけなのかもしれない。だが私たちは、自分に共産党に投票させる思考の路線に乗ることを「自由に」選んではいない。
№5772
うへへへへ。これ、原著では政党名はどうなってるんでしょうね。リクードか労働党か、みたいに書いてあるのだろうか。
公明党は一時期「ヒューマニズムの政治」を掲げていましたが、ヒューマニズム(人間至上主義)など自分だけに都合の良い作り話であるとこの本が言っている。何がヒューマニズムだ。思い上がるなよ池田大作戦。
じつは、私たちが自由意志の存在を信じている原因は、誤った論理にある。生化学的な連鎖反応のせいで私が右のスイッチを押したくなったとき、私は自分が本当に右のスイッチを押したいと感じる。そして、それは正しい。私は本当に右のスイッチを押したいのだ。とはいえ人は、もし私が右のスイッチを押したいのなら、私はそう望むことを 選んだ という結論に、誤って飛びついてしまう。この結論はもちろん間違っている。私は自分の欲望を 選ぶ ことはない。私は欲望を 感じ、それに従って行動するにすぎない。
№5785
ここが仏教かぶれのユダヤ人である著者の主張だ。自分が感じた渇望は自分ではない(無我)であると。詳しくは「五蘊」で検索。
現実には意識の流れがあるだけで、さまざまな欲望がこの流れの中で生じては消え去るが、その欲望を支配している永続的な自己は存在しない。だから、私は自分の欲望を決定論的に選んだのか、ランダムに選んだのか、自由に選んだのかと問うても意味がないのだ。
№5802
これは仏教ですね。永続的な自己の事を、一神教では魂と呼んでいますが、そんなものが無いというのが仏教の立場。しかし肉体や感覚など五蘊が自分ではない(無我)だとすれば、それを自覚し、悟ったあとに残る自分は一体何なのか?肉体も魂も否定したあとに残るものは何なのか?これを仏教の坊さんは「理屈じゃねえんだ!」と言ったりするので苦しい言い訳でもある。
この罠にはまるのは政府だけではない。企業もうまく行かない事業に何百万ドルも投入することが多く、個人も破綻した結婚生活や将来性のない仕事にしがみつく。私たちの物語る自己は、過去の苦しみにはまったく意味がなかったと認めなくて済むように、将来も苦しみ続けることのほうをはるかに好む。ついには、もし私たちが過去の誤りを白状したくなれば、物語る自己は何かこじつけを工夫して筋書きを変え、そうした誤りに意味を持たせざるをえない。たとえば平和主義の退役軍人は、次のように自分に言い聞かせるかも知れない。「たしかに私は誤りのせいで両脚を失った。だがこの誤りのおかげで、戦争が地獄であることがわかったので、今後は自分の人生を平和のための戦いに捧げよう。そうすれば、この負傷もけっきょく好ましい意味を持つ。平和を大切にすることを教えてくれたのだから」
№6142
間違いを間違いと認めることが出来ないがゆえに、間違いを重ねてしまう罠。毎回、神に山羊を生贄として捧げていたのだが、もし神がいなかったとしたら、私が単に財産を減らしていただけになってしまう。だからこの儀式はやめられない…と思うがゆえに更に財産を減らす。
それならば、人生の意味とは何なのか?
(略)ところが生命科学は自由主義を切り崩し、自由な個人というのは生化学的アルゴリズムがの集合によってでっち上げられた虚構の物語にすぎないと主張する。
(略)中世の十字軍戦士たちは、神と天国が彼らの人生に意味を与えてくれると信じていた。現代の自由主義者たちは、個人の自由な選択が人生に意味を与えてくれると信じている。だが、そのどちらも同じように、妄想に過ぎない。(略)それどころか、リチャード・ドーキンスやスティーブン・ピンカーら、新しい科学的世界観の擁護者たちでさえ、自由主義を放棄することを拒んでいる。彼らは自己と意志の自由の解体のために学識に満ちた文章を何百ページ分も捧げた後で、息を吞むような一八〇度方向転換の知的宙返りを見せ、奇跡のように一八世紀に逆戻りして着地する。まるで進化生物学と脳科学の驚くべき発見のすべてが、ロックとルソーとジェファーソンの倫理的概念や政治的概念にはいっさい無関係であるかのようだ。
№6160
ピンカーをバカにしていますが、元プログラマーであるピンカーは「AIが人間を支配する」なんてカビの生えた寝言は言わないぞ(Enlightenment Now《今こそ啓蒙》の抄訳をWebで読んだ)。
ハラリはコンピューター科学に関しては全くの門外漢であるので、この後の主張は笑ってしまう。「共産主義はホスト・端末型60年代式コンピューティング、資本主義はインターネットと同じ分散型システム。CPUの数が多い方が勝つ」といったような、いかにも、ニュースでインターネットの仕組みを読んで、その場の思いつきで書きましたという主張が始まる。この人、論文を書いたりニュースを読んだりするのにコンピューターを使うのでしょうが、それがどのように動いているのかについては、秋葉原で自作PCのパーツを買っているオタクと同じくらいの知識しか無いのでは?この思いつきの主張をみていると、「直観のハラリとデータのピンカー、どちらが真実を言っているのか?」と考えてしまい、それは当然。。。
さいごに
ハラリの歴史に対する知識の深さ、その直感に対しては驚嘆する。というか、私は歴史学者ではないので粗探しが出来ないから、単純にその知識量に圧倒される思いだ。一方、コンピューターの例えに関しては、私は計算機科学者ではないものの、多少は知っているので、本書の粗探しができてしまう。AIがどうとか、タイムシェアリングシステムを共産主義の中央集権に見立て、分散型システムを資本主義に見立て、ここが重要なのですが、証拠もないのに、それを「資本主義が共産主義に勝った理由」だとしてしまう。その間、何の引用もなし。呆れる。というか、「大学教授」という肩書きに私が騙されていただけなのか。
ピンカーのEnlightenment Now(抄訳)を読むと、ハラリの考えがいかに見当はずれだったのかが分かってきた。しかし「虚構は苦しまない。現実は苦しむ。虚構は人間の生活を良くするために生み出したのに、いつの間にか虚構と現実の区別がつかなくなり、虚構のために命を投げ出すことになる」というのは本当に、はっとさせられた。この客観的視点を、今生きている73億人の一体何%が認識しているのだろうか?