空気を読む:“あの先生の授業の時は話を聞かずにお喋りしたっていいんだぜ”
なぜ怒っているのか?
私は時々、他人を怒らせてしまう。しかし私には、なぜその人が怒っているのか全く理解できないことがある。こういうのって、いわゆる自閉症スペクトラムのグラデーションの一番薄いやつ、つまり精神科医がそのような病名を私につけることはできないが、まあまあ日常生活が難儀するボーダーラインなのではないか、と不安になってしまう。いままでこんな事を言われたことは無かったのだけど、今年に入ってから言われまくっている。
私は時々、他人が話をしている内容が全く理解できない事がある。それは会話の文章に目的語が無いからだ。「なに-を-どうする」の「なに」を言わないまま「どうする」だけ言われても、「それってアレの事ですよね?」と聞いたら先方は不機嫌になるだろうか、などと勝手に悩み、もしかして私の頭が悪いから理解できないのでは…と劣等感に苛まれ、コミュニケーションに掛かるコストを増大させている。
時間とその次の作業時間を台無しにしてしまうことが、ままある。私以外の優秀な人間は、「なに」と言わなくても「あれ」のことだとわかるのだろうか?彼らは超能力者だろうか?
中学生ふぜいにナメられていた国語のS先生
30年ぶりくらいに思い出した。中学校へ入ると教科ごとに担任の先生が別れており、国語の担当はS先生といった。痩せて、メガネを掛けていて弱々しい外見のS先生の授業が始まっても、教室の殆どの生徒達は私語を止めなかった。たまにS先生はキレて「いいかげんにしろ!」と生徒たちを怒鳴りつけたが、そのような叱責程度では一度「この先生はナメていいんだ」という「場の空気」を作り出し、それを嗅ぎ取ったずる賢い中坊どもは、卑怯にもその暗黙のルールに従った。私は、S先生のことは別段好きでも嫌いでもなかったが、教師としての能力がどうであれ静かにして授業を受けることが先生への最低限の敬意だと知っていたので、他人とおしゃべりするようなことはなかった。いや、そんな殊勝なことは思っていなかった。単に「場の空気」に流されて、先生への最低限の敬意をも失った「かしこい」バカどもと一緒になってたまるか、と思っていた、単なる天の邪鬼であった。
いじめと一緒だ
思えばいじめの構図もこんなものだ。「こいつはいじめても良い」という「場の空気」が醸成されると、いじめが止まらなくなる。ここで「いじめない」という「空気の読めない」選択ををしたやつは仲間はずれにされ「アイツは我々の部族の旗印に従わない部外者だ」と村八分にされるので、結果、全員が加害者となるアレだ。私はそんなずる賢い「空気読み」の加害者になるなど、死んでも嫌だと思っていた。そしてそのまま学校はドロップアウトした。そのせいなのか、生まれついて周囲に合わせられない性格のせいなのか、まあ後者だと思うが、そのせいで私は未だに貧乏人のままだ。周囲に合わせ、自分が所属する部族から重宝がられた「空気読みの天才」たちは、そうして「いじめても良いやつ」をいじめて自殺に追い込み、しかし自分が加害者であるとは微塵も感じず、自分はまんまと学校を卒業して今頃は高給取りになっているのかもしれない。
満足な愚者より、不満足なソクラテスの方が…自分がソクラテスであると増長しているのではない。不満足な愚者であると感じているが、他人の苦しみには共感できるくらいの愚者だ。
全共闘世代の尻尾を見ただけのA先生
クラスの偉大な「空気読みの天才」たちも、この地理のA先生がちょっと「うるさいぞ」といえば全員黙ってしまう。このA先生は怒ると怖い先生というわけではなかった。話し方は柔らかく、しかし抜群に話が面白かったので私も含め、多くの生徒はなんとなく尊敬していたに違いない。
A先生は映画クラブの顧問であったので、A先生のファンである私は映画クラブに入った。鑑賞する映画は最初のうちは「スペースバンパイア」などの微エロ映画で新入生を釣っておきながら、夏休み前から学年の終わりまで「東京裁判」という白黒のドキュメンタリーを見せるという、まあ世代的に全共闘世代に憧れた世代の典型、というべきだろう。
’70年代の学生運動といえば、高校での制服自由化だとかそんなくだらないことで暴れておいて、あとから管理教育の波が来たような、そんな時代だった。
A先生は学年が終わると、ブラジルにある日本人学校へ赴任してしまい、その後の足取りはわからない。
ナメられていた先生2:数学のW先生
何しろオバアチャンだったので…。付いていないことに私のクラスの担任でもあった。あれから30年経ち、あの先生ももう亡くなっていることだと思うのだけど、同じ中学校を卒業して、今はオーストラリアで大学助教授をしているという私とは正反対の「末は博士か大臣か」を地で行く人生を送るS助教に当時の話を聞くと「あー、W先生?あのやる気のない授業をしていたオバアチャンか」というような意味のことを仰ったので、当時、W先生の説明する数学が全く理解できずに、自分は他人より頭の悪い、劣った人間だったのか!と思春期で脳が改編してゆく時に受けたショックにより自分に自信がなくなり、結果として学校もドロップアウトしてしまった私だったが、S助教の話を聞くにつけ、単にW先生の説明がわかりにくかっただけなのではないかという思いがした。しかしもう遅い。
結論
私は誕生ガチャにより自己肯定感が低い性格に生まれつき、人生の荒波に負け続けているとの錯覚から自分がいかに恵まれた環境にいるのかにも気づかないほど愚かであり、結果として今も人生に難儀している。