筏に乗ったサルが1,000kmの航海を「偶然」成功する確率はどのくらいだと思いますか?それを考えると世の中がどうでもよくなってくる。

Hiroki Kaneko
Jul 22, 2023

--

Photo by Jenna Bash on Unsplash

最近、昔のことばかり考える。
これは私が歳をとったせいなのかもしれないし、鮭が故郷の川に戻るように人間も「懐かしい」という感情が、人類が生き残る上で何かしらの良い影響を与えていたのかもしれない。例えば狩猟採集時代に、子供の頃の山河を思い出して戻ってみたらそこには食料がたくさんあって飢え死にを免れた、とか。

歳をとったからには「名著」と呼ばれるような本でも読まなければならない、と勝手に感じて、今はダーウィンの「種の起源」を、暇な時に読んでいる。鳩の品種改良から始まるこの本は、2023年の「後知恵」で読むと色々と間違っているところが散見されるものの(例えば犬があれほど犬種の多様性を持っている以上、犬の祖先は複数いたに違いないなど。現在は狼が犬の唯一の祖先とされている)、インターネットもテレビもラジオもない、飛行機もない、カメラもないから学者達は動物の標本を、殺してアルコール漬けにするか、絵を描くくらいしかない時代に、よくもまあここまで調べたものだと感心する。

ダーウィンが切り開いた新たな視点は、人類を「神にエコヒイキされ愛された地球の主人公」から「取るに足らない霊長目のいち種族」に引きずり降ろした。こんな本を書いたら「神が人類を創造した」と教義にあるキリスト教会から批判されるのは当然予想されたため、ダーウィンは本書の中で何度も何度も、「創造論からの批判」を前提とした長々とした弁明を、批判される前に「予防線」を張っている。そしてこの2023年の今になるまで、この「鳩の品種改良」を出発点に、当たり前に想像できる進化論を信じていない連中もいる。このような愚か者を「頭が悪い」と切り捨てるのではなく、ダーウィン以後の世界に生きる私たちとしては「部族主義という人間の本能が真実を遠ざけてしまったのですね。自分は部族の掟を守る良い子チャンだからかわいがってくださいという精一杯のディスプレイか」と哀れみの目でそのような連中のことを見てやるべきだろう。

そしてこの記事だ。なぜ南米にサル(新世界ザル)がいるのか?サルがアフリカに登場したとき、すでにアフリカと南米は海で隔たれていたし、陸橋も存在しなかった。ということはつまり、自然のイカダに乗ってサルたちは何度も何度も、アフリカから南米に漂着していた、ということだ。このニュースを読んで、私はめまいがするというか、その3000万年という時間の長さを想像すらできず、ただ自分の無力さを感じるだけになる。

この感情をうまく言葉で人に伝えられず、もどかしく感じている。
例えばこういう話も、私は自分自身の存在などほとんど無だと感じる:「宇宙は無限なのだから、その無限の宇宙のどこかには、起こりうる可能性があることはすべてどこかの宇宙で起こっている。つまり宇宙の何処かにはもう一つの地球があり、いや、一つどころか地球も無限にあり、そこには無限の<私>が住んでいる」。

以前見た、イギリスかアメリカの宇宙に関するテレビ番組に出演していた学者の言葉を借りれば「その並行宇宙では、ゴアがアメリカ大統領になり、エルビス・プレスリーがまだ生きているのです」だ。

自分の意志とは関係なくがけ崩れで「偶然できたイカダ」に乗り、アフリカを出発したピグミーマーモセットみたいなかわいいサルが、3000万年の間には数えきれないくらい存在して、そのほとんどはイカダが海に沈んで死んでしまっただろう。しかし、奇跡が実際におきてしまい、当時1000kmあったアフリカ→南米間の大西洋を偶然にも渡りきり、そこにはオスとメスがいた。

こんな偶然あるのか?「1万回サイコロを振って全部6が出る」ようなものだが、とてつもなく低い可能性のことが起きてしまうくらい長い時間というものを想像するだけで、いや想像すらできないのだけど、そこに3000万年という時間の長さを感じずにはいられない。マダガスカル島のような地域に生息する動物たちも同様に、自然のイカダに乗って、その島にたどり着いたのだろう。その「奇跡の成功者」の影で、数えきれないくらいの動物が死んだのだろうし、そこに「本人」たちの意思があるわけない。生命に目的などなく、私たちはただサイコロを振らされているだけ、そんな繰り返しが何千万年、何億年も続いているという事実は、私に畏敬の念を抱かせる。それは「全宇宙を作った神は、なぜか知らないが取るに足らない天の川銀河の端っこの太陽系の取るに足らない惑星に住む猿の一種だけを異様に可愛がり、他の種族も作ったくせにそいつらは<この世界の主人公のための脇役>であり、殺しても良いと言っている」といったユダヤ教、キリスト教、イスラム教の幼稚な「神」という概念などは「アニメ見る以外能無しの中2が考えた漫画の内容」くらいにしか思っていない。
自分という限られた時間にのみ生きている存在が、毎日日が昇り、日が沈み、何も変わっていないように錯覚するその世界の存在そのものが自分には神秘であり、事実であり、その善も悪もない、宇宙の物理法則だけ先に決めて、あとは無限にサイコロを振り続けるだけのこの宇宙の前には、人間社会の些細なことなど本当にどうでもよいと感じる。あまりにもそう感じるので、テレビも見なくなったし本もあまり読まなくなってしまった。これを第三者から見れば「無趣味な、つまらない中年」としか思われないだろうが、そのような幼稚でくだらない段階は私の中ではとっくに終わったのだ。いや、人生の折返しを過ぎてようやくそこまで理解する頭になったと呼ぶべきか。

何もない日常が、私にとってはありがたくて怖くて仕方がない。
自分がサイコロを振った目の運命しか用意されていないこと、そこに善も悪もないのだ。それを発見したのはダーウィンではなかったのか?

--

--

Hiroki Kaneko
Hiroki Kaneko

Written by Hiroki Kaneko

自営業のソフトウェア技術者。Airbnb TOP5%ホスト。サイクリングと旅行が趣味。

No responses yet