読書ノート:これがすべてを変える 資本主義 vs. 気候変動(下)/ナオミ・クライン著 (2)
第9章 「抵抗地帯」
ギリシャや、著者の地元であるカナダのオイルサンド地帯へのフラッキング(水圧破砕法)に抵抗する人たちへの取材。私はフラッキングについての知識がないので、それが悪いのかどうかはよく分からなかった。Webで少し調べた限りでは、地震や地下水汚染といった問題が出ているようだ。
しかし、だからといってフラッキングは永遠に問題のある技術なのだろうか?技術というのは進歩するものだ。
著者およびその周辺には「技術は進歩する」という見方がまったく欠けている。オイルタンカーから原油が海に流出した!大変だ。しかしそれでは石油会社も大損なので、船を二重底にしたりと、座礁しても原油が流出しないように技術を進歩させる。ここ数十年で原油流出事故が減り続けていることは無視するのだろうか。
要は、天然ガスや原油は結局、炭素源であり燃やすことによって気候変動を助長してしまうから、地下にしまったままにしろ、と言いたいのだろう。そうかもしれない。そうかもしれないが、では高まるエネルギー需要をどのように満たすのか?
「この土地は私のものだ。石油会社に渡すか」というセリフが善のように書かれているが単なる偏屈な地主のセリフにしか聞こえないのは、私の親も私も今まで「自分の土地」というものを持ったことがなく、寝ていても地代が入ってくる地主に対する妬みがあるからだ。偶然、土地持ちの親の下に生まれたというだけで威張るんじゃねえぞ。
9,10,11章で取り上げられるネイティブアメリカンには、もともと「自分の土地」とう概念は無くて、西洋人がやってきたら奴らは囲いを立てて「この内側は私たちの土地だ。私たちが手を入れて耕したから私たちの土地だ」と屁理屈を捏ねられ、それをアメリカ建国と自分たちの植民の正当性にし、抵抗したら暴力で排除されてきたんじゃないのか。よくわからないが、とどのつまり「私の裏庭にはごめん(NIMBY)問題」ということなのか。
第10章 愛がこの場所を救う
手元にポストイットがなかったので、どの章なのか見失ったけど、ある住民のセリフとして、「土地を愛していれば何の問題もない。自然を征服するのではなく、自然と共生した生き方ができる」というような意味のセリフが書かれていた。だが、本当にそうだろうか?「21世紀の啓蒙」では、このようなことも書かれている:
エコモダニズムは「汚染の一部は熱力学の第二法則から導かれる不可避的な結果だ」と理解するところから始める.ヒトが何か活動するとエントロピーは上昇する.それは常に環境と調和するわけではない,今日の「自然」は人類が大型獣を絶滅させ,森を焼き払ったあとの姿だ.アメリカの国立公園やセレンゲティの「野生」は純潔のサンクチュアリではなくそれ自体文明の産物なのだ.農業はさらに破壊的だ.5000年前からのアジアの米作は水田で腐っていく植生から発するメタンで温暖化を生じさせたという説もある.1人あたりの環境負荷は新石器時代や鉄器時代の方が大きかっただろう.「自然な農産物」というのは矛盾した概念なのだ.
https://shorebird.hatenablog.com/entry/20180604/1528110966
昔ながらの生活をすれば環境問題は解決するとグリーン主義者たちは思っているようだが…アジア人は土地を愛してもいなければ、自然と共生もしていなかったのだろうか?そう考えるより、「昔は何の環境問題もなかった」という考えが間違いだったと見るべきだろう。彼らの「共生」とは、「ただしアジア人は米を食うな」という条件付きだろうか?やなこった。
「昔の人は穏やかな暮らしをしていた」というのは全くの嘘だ。定期的な飢饉で飢え死に、病気になっても薬も医者もなく、警察も裁判所も刑務所も無いので報復の連鎖が止められずに暴力に満ち、子供は学校へ行けず、女性は地位が低く、迷信に囚われ…これのどこが「昔は良かった」なのだろうか?昔が大好きな右派も左派も都合の悪いことだけ忘れる健忘症だと思うので、DHAとかEPAとラベルに書かれたサプリメントを飲め。
それでも「昔のほうが良かった気がする」のなら、それは進歩恐怖症というものだ。
悲観主義者のもう1つの標的はテクノロジーだ.悲観主義者たちは鉄道,産業革命後の工場,電話,時計,ラジオ,テレビが現れるたびにそれが非人間的だと警鐘を鳴らし続けた.
https://shorebird.hatenablog.com/entry/2019/02/27/195704
第11章 ほかにどんな援軍が?
アメリカの先住民居留区に住む人々は仕事がなく、アルコール中毒や自殺率が高いという。隙間風が吹く家に住んでいるので、冬季は燃料代もかさむし、石油ストーブは気候変動(略)だと。アメリカ先住民の苦難は別問題として、その居留区の、ひとつの集落を石油ストーブから電化したところで「全地球的な問題」に対してはかすり傷一つつかないとは思います。それが理解できないのなら著者は数字オンチでもあるし、量の区別がつかないのなら二酸化炭素排出量の、何を、どのくらい、削減すればよいのかといった判別もできないはずだ。
その集落に太陽光発電パネルを取り付ければ「地球に優しい」暮らしができるし、人々に職を与えられると。太陽光発電が作動しない、寒い冬の夜はどうするのか、ここには書かれていませんでした。
化石燃料エネルギー・原子力エネルギー支持派は口を開けば、再生可能エネルギーには「信頼性がない」と言う — — つまり、自分がどこに住むかをよく考え、いつ太陽が出て風が吹くか、いつどこで川の流れが急か緩やかかといったことに注意を払う必要があると。たしかにそのとおりである。再生可能エネルギーが私たちに求めているのは、少なくともヘンリー・レッド・クラウドの見方に立てば、自分たち人間が自然の主人 — — 「神という種」 — — であるという神話を解体し、自然界との関係性の中に存在するという事実を受け入れることだ。
太陽光発電は夜や曇りの日には使えない。風力発電は風のない日には使えない…という当たり前の事実の反論が、何か明後日の方向を向いてしまっている。「グダグダ言ってるんじゃねえ、自分は神だと思い上がったサルが!」とでも言いたいのだろうか。果たしてそれが「自然エネルギーは火力や原子力発電の代わりにはならない」という疑問に対する答えだろうか?答えになっていない。「夜や風のない日には、電気を使うことを諦めろ」と言いたいのだろうか。ではまずあなたから、深夜に急病になり、電気の使えない病院で死んでもらいましょう。手術中に風が吹き続けることを神に祈りますか?もしくは親戚や友人の大切な人がそのようにして死んだときは「人間というのは自然界との関係性の中に存在するのだ」と言って慰めてあげよう。
ただし、その関係性は新たなレベルのものであり、前化石燃料時代にはとうてい想像もつかなかったような自然の理解に基づいている。私たち人間は、自然を知り尽くすことなどできないことは十分承知しているが、一方で、自然が与えてくれるシステムを創意工夫を凝らして増幅させる方向 — — フェミニズム歴史家のキャロリン・マーチャントはこれを「パートナーシップ倫理」と呼ぶ — — を編み出させるだけの知識は持っているからだ。
火力も原子力発電も、自然からエネルギーを取り出すための、単なる技術の一つでしかない。もちろん太陽光も風力もそうだ。それなのになぜ、火力や原子力だけが「自分たちが自然の主人である」という思い上がりで、太陽光と風力は違うのか?そこに明確な線引きはあるのだろうか?根拠がない、単なる肩入れでしかないなら、それは「恣意的」と呼ぶのでは?あと、自分の不勉強を「私たち人間は、自然を知り尽くすことなどできないことは十分承知している」にすり替えないように。知る努力を放棄することと「本質的に理解し尽くせない」は別だ。
ここに「少々のことは我慢しろ」という自己犠牲の精神が垣間見えるが、地球規模の巨大な問題の前に、個人が新しい服を1年間買わずに我慢する、という行動がいったいどれだけの影響を与えられるだろうか?え?みんなでやるから影響は大きいと?…そうですかね?それは下の円グラフのどのあたりでしょうか:
全国地球温暖化防止活動推進センターウェブサイト(http://www.jccca.org/)より
自己犠牲は、ピンカーの言う「(問題に対して)かすり傷一つつかない」結果にしかならない。上記円グラフで41.3%を占める「エネルギー転換部門」は発電所のことであり、「みんなの自己犠牲」では、どうにもできない。これを、21世紀中頃までに半減、またはゼロにしなければならないとしたら、この41.3%を太陽光発電、風力発電で置き換えることは無理だろう。
第12章 空を共有する
気候変動という全地球的問題の前では、都市を捨てて農場で「地球に優しい」暮らしをするというヒッピー的な「オルタナティブな生き方」は許されていない…と、ベトナム反戦運動の結果、アメリカからカナダに移り住んだ両親を持つ著者は申しております。
ブルックリンのレッドフック地区を訪れた私は、レッドフック・コミュニティ・ファームに立ち寄った。このファームは、近くの低所得者用集合住宅の子どもたちに健康的な食べ物の育て方を教え、多くの住民に堆肥を提供し、毎週ファーマーズ・マーケットを開催するなどの素晴らしい実践で知られている。さらに「コミュニティ支援農業」プログラムを運営して、あらゆる種類の産品を必要な人に届けていた。地元住民の生活の改善に寄与するだけでなく、気候問題の観点から見ても正しいことをすべてやっていた — — フードマイルを短縮する、石油製品を使わない、CO2を土壌に隔離する、堆肥化でゴミを削減する、などなど。ところがハリケーンの直撃で何もかもが無に帰してしまった。(略)
つまり、ドロップアウトして農場で暮らすという選択肢は、今の世代にはないのだ。遅かれ早かれ化石燃料の暴走列車がやってくるのだから、緑のユートピアなどもうありえない。生命を脅かすシステムへの抵抗運動に参加することと、そのシステムに代わるオルタナティブな生き方を構築することの区別が意味を持っていた時代もあったかもしれない。だが今日の私たちは、両方を同時にしなければならないのだ。
ここでまた「21世紀の啓蒙」第10章から引用する:
もう一つ、気候変動を防ぐ方法についてよく目にする一般感情を紹介しよう。それは次の手紙によく表れている(ちなみに、わたしのところにはこれと似たような手紙がときどき届く)。
“ピンカー先生へ
地球温暖化を防ぐため、わたしたちはなにかしなければなりません。どうしてノーベル賞を受賞した科学者の皆さんは請願書に署名しないのでしょう?政治家なんて愚にもつかない生き物で、どれだけ多くの人が洪水や旱魃で亡くなろうがどうでもいいと思っているのです。どうして科学者の皆さんはそんなありのままの真実を語らないのでしょう?
そこで思うのですが、先生がご友人と一緒にインターネット上で運動を始めてみてはどうでしょうか。温暖化と戦うため真の犠牲を払うという誓約に、みんなが署名するようにするのです。というのも、問題はまさにその点にあるからです。誰一人、犠牲を払おうとしていません!これからは、みんな緊急のとき以外、二度と飛行機に乗らないと誓うべきです。何と言っても飛行機は大量の燃料を燃やしますから。それから食肉の生産も大気中に多くの炭素を出すので、少なくとも週に三回は肉を食べない日を作ると誓うべきです。あとは陶器を焼く時も多くの炭素が出るので、芸術的な陶器ももたないようにすべきです。金や銀を精錬するのにも沢山のエネルギーが使われるので、宝飾品を買わないと誓うべきです。大学の芸術学部で陶芸をやっている皆さんには、このままでは大変なことになるという事実を受け入れてもらうしかないでしょう。”ここで「統計屋」になるのを許してほしいが、たとえみんなで宝飾品をあきらめたとしても、世界の温室効果ガスの排出量にはかすり傷一つ付きはしない。温室効果ガス排出の内訳は、重工業(20%)、建築業(18%)、運輸業(15%)、土地利用の変化(15%)、エネルギーを供給するためのエネルギー(13%)だからだ。(畜産は5.5%で、二酸化炭素よりも主としてメタンを排出する。航空機は1.5%)。もちろん差出人の女性が宝飾品や芸術的な陶器をあきらめるよう提案したのは、効果のためではなく犠牲的精神のためである。だからこそ、宝飾品という典型的な贅沢品に的を定めたわけで、それは不思議でも何でもない。気候変動に対処するとき、わたしたちは2つの心理的障害に直面するが、この女性の独創的な提案にはそれがよく見て取れる。そもそもわたしがこの独創的な提案を紹介したのも、その心理的障害を説明するためである。
心理的障害のひとつ目は「認知」である。世間の人々は規模で考えることが苦手で、どの行動がどれだけの二酸化炭素の排出量を削減するのか、それは何千トン規模なのか、それとも何百万トン規模なのか、何十億トン規模なのかを区別していない。また濃度や割合、その変化ペース、ペースの変化率、さらに高次の導関数の違いについても無頓着だ。どういった行動を取ると、二酸化炭素排出ペースに作用するのか、排出ペースの増加率に作用するのか、あるいは大気中の二酸化炭素濃度に作用するのか、世界の気温に作用するのか(二酸化炭素濃度が現在のままでも気温は上昇する)、その区別もしていない。しかしこうした問題について最新の情報を知った上で、変化の規模や種類についても考えなければ、何一つ成果の出ない政策をよしとすることになりかねない。
二つ目の心理的障害は「道徳感覚」である。第二章で説明したように、人の道徳感覚というのはあまり道徳的ではなく、そのせいで非人間的になったり(「政治家は愚にもつかない生き物だ」)、懲罰的な攻撃へと向かったりしてしまう(「環境破壊の張本人に払わせる」)。また浪費は悪で禁欲は美徳だという考えが結びつくことにより、無意味な犠牲を誇示し、それらの犠牲を神聖化することにもなる。多くの文化で、人々が神に向けて断食や貞節、自己犠牲を誓い、虚栄心を満たすものを焼き捨て、動物(時には人間)を生贄として捧げることで己の正しさを見せようとするのもこの心理が働いている。(略)
しかしどれだけ良いことをしているようでも、それもまたわたしたちが立ち向かっている巨大な試練から注意をそらすものでしかない。というのも、炭素の排出量削減は古典的な「公共財ゲーム」(「共有地の悲劇」としても知られる)であるからだ。このゲームでは、すべての人々は他人の犠牲から利益を受け、犠牲を払った人はその分だけ苦しむので、誰もがフリーライダー(ただ乗りをする人)になって他人に犠牲を払わせようとする動機を持つことになり、結果的に全員が不利益を被るようになる。こうした公共財のジレンマを解決する標準的な方法は、強制力を持つ権力がフリーライダーを罰することである。だが、(たとえば芸術的な陶器を全面禁止にするような)全体主義的権力を持つ政府の場合、その権力を公共の利益の最大化に限定して使うことはまずないだろう。
なかには、わざわざそのような方法をとらなくても、良心に訴えかけさえすれば、誰もが必要な犠牲を払おうとするはずだと、夢見る人もいる。しかし人間には公共心があるとは言え、数十億の人々が自分の利益に反する行動を一斉に取るはずだという甘い期待に、地球の大事な運命を託するのは浅はかすぎないだろうか。何より重要なのは、その犠牲とは、炭素の排出量を今世紀半ばまでに半減させ、その後ゼロにするほどのものでなければならず、宝飾品の断念よりもずっと大きいということだ。犠牲によって達成しようとするならば、求められるのは、電気や暖房、セメント、鋼鉄、紙、旅行、手頃な価格の食品や衣服をあきらめることになるだろう。
この頓珍漢な手紙を送ったのって、ナオミ・クラインではないのか?